とつか歴史探訪 ■番外編 〜矢沢の隧道・切通〜
「長後街道」は、かつて戸塚を経由し横浜港へ絹糸を運ぶための重要な役割を果たしていました。鉄道の開通で駅が出来、戸塚が発展し始めると周辺道路の建設が必要となり、明治35(1902)年の着手から12年の歳月を掛け長後までの一里半(6km)が道路として整備されます。最も難所だったのは現在のサクラス前のトンネル工事で、当時の工法はまだ幼稚でありスコップ・鍬・天秤などが使われ死者11人を出したと言われます。ところが大正12(1923)年の関東大震災でトンネルは崩落し通行不能となりました。
そして大正14(1925)年10月、切り通しとして改良され現在の姿に近い「長後街道」として復旧しました。この時の道幅は、2間半(4・5m)程度で今の半分ほどでした。現在も清源院前を通じる道は、旧道の往時を残し生活道路に使用されています。
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4月18日