戸塚区・泉区 社会
公開日:2025.08.14
「戦争は人を変える」
満州で暮らした鶴貝さん
「敗戦の日、中国人が片足のない日本の傷病兵を何度も地面に叩きつけ、体じゅうにレンガをぶつけていた」――。
泉区在住の鶴貝敬司さん(91)は横須賀で生まれてすぐ、一家3人で満州奉天へと引っ越した。「当時は満州に行けば日本の3倍は稼げると言われていました」
3歳の時、父が満州鉄道の職員となったことから蘇家屯(そかとん)へ。終戦間際の国民学校5年生の時には奉天空襲を経験し、B29の襲撃を目の当たりにした。「近くの神社に日本の戦闘機が落ちたのを見に行ったんだけど、翼の部分がベニヤ板でね。子ども心ながらに『これじゃ勝てない』と思いました」と振り返る。
1945年8月15日、敗戦の日。満鉄病院から連れ出された日本の傷病兵が中国人らに自宅前で暴行されているのを目撃した。後に聞くと彼は戦時中、中国人らに無礼な態度をとっていたためというが「戦争は人を変えるんだと思いましたね」。
命がけで引き揚げ
敗戦後は満州にある資源の強奪を目論むソ連の先遣隊がなだれこんだ。「酷いものでしたよ。いきなり家にソ連兵があがりこんで強盗するんです」。ある時はソ連が連行していた日本兵が脱走し、自宅にやってきたため保護したこともあったという。
1年が経ったころ、本土に引き揚げることが決まった。引き揚げ船の出る葫芦(ころ)島の港まで1週間、柵もない台車に乗せられて一家8人で移動。道中、中国人の追い剝ぎに遭遇したが、弟と妹の手を強く握って守りきった。命からがら到着すると今度は賄賂の要求。「渡さないと日本に帰れないと言われた」
船を待つ間、少ない食料のなか大釜でサツマイモを煮ていると、熱い鍋に手を入れてイモのしっぽをつかむ手があった。日本人の孤児たちである。「分けてあげようとしたら、母に『何人いると思ってるんだ!』と叱られてしまって。やりきれなかったですね」
戦後は教員として後世に
帰国後は伯父のいた磯子区で過ごした。中学校卒業後は東日本重工業内の三菱造船工業専門学校に進み養成工となった。しかし知り合いから将来性がないと聞かされ退職。今度は磯子区にあった米軍関係施設の「ハウスボーイ」として家事などをする職に就いた。そこで仲良くなった将校から英文タイプを学び、夜間の仕事をこなしながら大学に進学。資格を取って教員となった。
現在まで自身の体験をさまざま新聞にも投書してきた。「戦争を知る人がいなくなれば、また戦争は起こる。少しでも多くの人に何が起きたのかを知ってもらえるよう今後も伝え続けたい」
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