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港南区・栄区 社会

公開日:2025.08.14

永遠に感じた船上生活
栄区在住 加藤規子さん

  • 中国での記憶を語る加藤さん

 1934年、日本の租借地だった大連で生まれた加藤規子さん(90歳)は、安東と吉林という当時の満州国にあたる地域で幼少期を過ごす。父は現地で警察官として働き、加藤さんは日本人学校に通いながら、家族や友人と楽しく穏やかに暮らしていた。

 しかし、終戦を迎えた8月以降、当時満州に侵攻していたソ連軍による略奪行為の被害に遭ってしまう。「ドンドンと大きな足音が近づいてくると思ったら、拳銃を向けながら兵士たちが土足で家に侵入し、金品などを奪った」と当時の状況を鮮明に語る。

 その後、加藤家は父の友人宅に避難。しかし、避難先で父がソ連軍によってシベリアへ連行されてしまった。「ソ連兵から、父は戦犯と認識されていた。警察官だった父など公的な職業に就いていた人は同じようにシベリアへ連行されたのだと思う」と推察する。

 その後、父親が1946年の1月に帰宅。身体が限界を迎えた時、機転を利かせて自身のことを結核病患者だと偽り、解放してもらったという。約3カ月ぶりの帰宅に家族は嬉しさのあまりに泣きながら飛び跳ねた。後に父親は「貨物列車の荷台の中で凍えながら移動した。その後はソ連で、兵士の指示のもと、重労働をさせられる日々だった」と加藤さんに現地の様子を語った。

 同年の夏、中国からの引き揚げが始まったという知らせを受けて家族は吉林を出発。日本へ戻るため列車で港へ向かった。しかし、その道中に移動の疲労と栄養失調により4歳の弟が衰弱。また、港に着くころには多くの人が亡くなった。

陸が見え「涙出た」

 巨大な貨物船に乗車するも十分な食事にはありつけず、死者は後を絶たなかった。「船で死者が出た場合は遺体を布で包み、海に投げる『水葬』という形が取られた。ほとんど毎日行われ、そのたびに船内放送で合掌が促された」と船内の過酷な状況を明かした。弟の体調も回復せず、意識が朦朧とする弟を母が抱きしめながら、看病をする日々が続いた。

 そんな状況を家族で耐え抜き、9月末ごろに博多港に到着。現地の収容施設で療養した後、父親の実家である群馬県で新たな生活をスタートさせた。船での生活を「弟の体調も回復せず、吉林から一緒だった知り合いが次々に力尽きていく状況。船での生活はとても長く永遠に感じた。早く到着することを祈り、陸が見えた時は涙が出た」と回想する。

 加藤さんは最後に「ウクライナやガザからの中継で痩せた子どもが映るとあの時の弟を思い出す。子どもが辛い思いをしない世の中になって欲しい」と平和に願いを込めた。

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