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公開日:2022.09.15
本牧 気まぐれ歴史散歩 61
『居留地界石外国人居留地との境界石』
横浜が開港場になり、外国人が暮らす場所「居留地」が現在の山下町に設けられました。生麦事件をきっかけに、居留地に関する取り決めが見直されることとなり、元治元年(1864年)英仏蘭米四か国と締結された「横浜居留地覚書」で、居留地が現在の山手町まで拡張されることになりました。
慶応3年(1867年)から山手居留地はBLUFF「〇」番地と表記され、外国人居留地と日本人居住地との境界には「居留地界」と記された界石が建てられました。界石はおそらくたくさんあったと考えられますが、明治33年(1900年)に居留地が撤廃となったことや、関東大震災での山手地区の被害、その後の再開発により次々と失われ、現存する界石は10本程度(うち1本は当館所蔵)となってしまいました。山手外国人墓地入口から反対側の歩道に状態の良い界石が2本、大切に移設保管され、いつでも見ることが出来ます。移設されずに残っている界石の1本は、アメリカ山公園出口から元町プラザへ下る階段の中腹にあります。かなり劣化が進んでおり、何の表記も保護もしていないのが残念ですが、確かにそこに居留地との界があり、この界石は横浜絵や古写真に描かれた横浜の町の変遷や人々の暮らしをずっと見守っていたことを静かに物語ってくれます。
もう少し、山手外国人墓地から港の見える丘公園あたりを歩いてみたいと思います。(文・横浜市八聖殿館長 相澤竜次)
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