鶴見区 コラム
公開日:2022.09.01
「土木事業者・吉田寅松」43 鶴見の歴史よもやま話
鶴見出身・東洋のレセップス!?
文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
奥羽南線
福島から湯横手盆地の入口、湯沢までの奥羽南線は、明治二十七年三月に福島から着工した。
福島・米沢間には急勾配、羊腸のように曲がりくねった峻険な断崖絶壁が連続する東北の脊梁・奥羽山脈が横たわっている。日本屈指の豪雪地帯、福島県と山形県の県境に位置する板谷峠越えは、日本鉄道建設史上屈指の難所だった。第十号隧道から第十八号隧道まで連続して九本の隧道を開削する難工事区間は、杉本組、橋本店、佐藤工業や地元の土建業者などが請負った。
千六百二十八・五メートルの板谷・峠間の第十六号隧道(第二板谷トンネル)は、開業当時日本最長のトンネルだった。
隧道掘削工事は、固い岩盤をカンテラの灯りを頼りに掘り進んだが、カンテラの油煙や爆破時に生じる有害な噴煙と砂塵で坑内の空気は常に汚濁していた。当時はまだ送風機もなく、農家で籾や豆などの選別に使っていた木製の唐箕(とうみ)を改良し、水力で動かして坑内に風を送って換気をした。水力が使えない坑道の奥では作業員が唐箕を手回しして空気を送ったが、坑内の空気は汚濁し、酸欠状態に苦しめられながらの作業が続いた。冬季は山も谷も一面の雪で覆われ固く結氷し、峻烈な寒気で作業は中断させられた。険しい地形と厳しい自然環境に阻まれ、隧道工事は困難を極め、福島・坂庭間開通まで約五年の歳月を要し、明治三十二年五月に竣工。板谷峠の赤岩、板谷、峠、大沢の四駅は連続してスイッチバック駅とし、補助機関車をつけての運行とするほどの狭隘、峻険な山間秘境に鉄路が拓かれた。赤岩駅は令和三年に廃駅となり、山形新幹線が開業した令和四年にスイッチバックも廃止された。
福島・山形を結ぶ奥羽南線で吉田組が請負ったのは、赤湯から山形を越えた所までの工区で、赤湯隧道二個と権現山隧道が含まれていた。赤湯・上ノ山間の赤湯第一・第二の隧道は、中山の関の山地を越えるもので、米沢・山形間の難所だった。土砂層に岩石交じりの地質は、掘削するのにさほどの困難はなかったが、湧水に悩まされた。特に第二隧道では、工事を中断して、排水作業や土砂層を補強するための支保工建設などに多くの日時を費やした。
取揚坂陸橋の根切作業中に雨が降り、近くの山腹が崩落し、泥土が流れ込み工事現場が埋没するという事態も生じた。
土砂を取り除きようやく復旧工事を完了させた矢先の明治三十三年十一月下旬には暴風雨に見舞われ、また山腹が崩壊し、土砂や岩石などの濁流で四千坪が泥の海と化した。さらに長雨がつづき復旧作業もままならぬうちに、冬将軍が到来した。積雪中はほとんどの工事は休止状態で、完成がだいぶ遅れた。少し線路を変更して土留めの石垣を築造して明治三十四年一月にようやくこの区間の工事を竣工させることができ、四月に赤湯・上ノ山間が開通した。
上ノ山・山形間は、平坦な地勢がつづいたが、上ノ山北部の丘陵部の地質は堅岩のため切取工事で難航したが、明治三十四年四月、上ノ山・山形間が開通した。
赤痢流行で遅れた工事
吉田組が奥羽南線の工事を請負っていた明治三十二年七月から十一月にかけて山形県内各地で赤痢が流行した。
赤痢は、明治二十三年に、九州地方で流行し始め、中国、近畿、東海、北陸と北上し、明治二十七年には東北地方にまで広がり、明治三十三年までの十年間、全国的に猛威を振るいつづけた。
明治三十二年七月から十一月にかけて、吉田組の鉄道土木工事の現場となっていた赤湯町(現在の山形県南陽市赤湯)では、明治三十二年に患者百四十七人、死者三十六人を出している。
吉田組の従業員や地元採用の日雇労働者たちも赤痢で倒れ、工事は大幅に遅れた。寅松は、赤痢予防費として赤湯町に三百円を寄付している。
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