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鶴見区 コラム

公開日:2025.12.18

「土木事業者・吉田寅松」67 鶴見の歴史よもやま話
鶴見出身・東洋のレセップス!?
文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略

自動車の世界に転身

 真太郎は、明治三十二年に貴族院議員で明治二十六年から二十九年まで東京府知事、宮内省顧問官を歴任した三浦安の四女恵香と結婚。大森山王台に白亜の豪邸を構え、明治三十四年には双輪商会を三浦家の屋敷近くの木挽町四丁目に移転した。

 明治三十五年発行の『日本商工営業録』には、木挽町四丁目の自転車並び附属品卸小売双輪商会の営業人は吉田寅松と記されている。

 デートン号の売れ行きが好調で、真太郎は自転車界の風雲児として明治自転車史にも名をのこしたが、まもなく双輪商会を弟たちに譲り、自動車の世界に転身、十二人乗りの乗合自動車や国産初のガソリン自動車「タクリー号」を開発する。

日本最初の国産乗合バス

 真太郎は、明治三十六年に銀座四丁目に自動車の輸入販売を目的に「自動車販売部」を設立。翌年、金庫商の杉本岩吉と貸座敷業の瀬川定吉から、「広島県の横川と可部間に乗合自動車を運行したい」という依頼をうけた。機械いじりが好きだった真太郎は快く引き受け、自動車を輸入するためにアメリカに渡った。

 三か月間、アメリカ国内の自動車状況を視察。ニューヨークで開催されていた第三回モーターショーを見て、近い将来日本にも自動車社会が到来すると確信した。エンジンやトランスミッションなどの部品を小型車二台分・大型車一台分のシャシーと乗合自動車のカタログを購入して帰国した。

 馬車製造業者などの協力を得て、ウラジオストックで自動車技術を学んでいた内山駒之助と大型車シャシーに、欅造りの車体にアメリカ製エンジンを取り付け、十二人乗りの乗合自動車を完成させた。

 真太郎の東京自動車製作所が造った改造乗合自動車が、明治三十八年二月五日、広島県の横川・可部間で乗合バスとして運行を開始した。これが国産初の乗合バスとなった。

 横川・可部間十四・五キロ、所要時間は一時間、片道二十四銭。馬車運賃は十五銭。客足が奪われると、地元の馬車業者からの反発が強かったことや、重量が一トン以上もある重い車体が、デコボコ道を走るので、わずか九か月で営業を停止した。

 現在、山陽本線横川駅前には、日本最初の国産乗合バスを復元した、レトロな「かよこバス」が展示され、「日本最初の国産乗合バス誕生の地」のパネルが設置されている。エンジンも搭載した実際に動く「かよこバス」は、イベントなどでも大活躍しているという。

 明治四十年、真太郎は、注文を受けて、小型車のシャシーで有栖川宮家の価格一万五千円のフランス製「ダラック」を参考にして、国産初のガソリン自動車を製造した。ガタガタ走るので「タクリー号」だといわれたが、明治四十二年までに国産車を十一台製造・販売した。

車社会を予見した有栖川宮

 日本で最初に自動車を使用したのは、吉田寅松と共に新政府の御用商人や新橋・横浜間の鉄道土木工事請負業などで立身出世し、大倉財閥を築いた大倉喜八郎の嗣子大倉喜七郎で、二番目が有栖川宮威仁親王だった。

 有栖川宮は明治十四年から十六年までイギリスに留学、明治二十二年に欧米諸国を訪問し、健康に最もすぐれたスポーツとして乗馬や自転車の遠乗りなどを好み、アメリカ製レース用自転車を愛用していた。

 明治三十年にイギリスのビクトリア女王即位六十年祝典に参列するための渡欧中、西洋諸国では市中を自動車が往来しているのを見て、日本でも近い将来自動車が交通の要になると考え、日本に持ち帰りたいと思った。しかし、パリの自動車製造業者に構造や運転方法などをきくと、当時の日本の道路状況などから時期尚早と断念した。

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