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鶴見区 コラム

公開日:2025.11.13

「土木事業者・吉田寅松」66 鶴見の歴史よもやま話
鶴見出身・東洋のレセップス!?
文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略

自動車史に名を遺した真太郎

 吉田寅松の長男真太郎は、初の国産自動車を造った自動車産業の先駆者だった。

 吉田真太郎は、二〇一一年(平成二十三)に日本自動車殿堂(JAHFA)から「初の国産自動車『吉田式』の制作者」として、伝道者の称号が贈られた。

 JAHFAは、日本における自動車産業・学術・文化などの発展に寄与し、豊かな自動車社会の構築に貢献した人々の偉業を讃え、殿堂入りとして顕彰し、永く後世に伝承していくことを主な活動とする非営利法人。JAHFAのホームページには、歴代の殿堂者たちの業績、表彰状が紹介されている。

 近代自動車産業を創始し育成したトヨタ自動車創業者豊田喜一郎、自動車技術の革新とレース活動で本田技研創業者本田宗一郎、日本のタイヤ産業の創立と育成でブリヂストンタイヤ創業者石橋正二郎、自動車輸入の最大手企業に発展させたヤナセの梁瀬次郎などは、二〇〇一年(平成十三)の殿堂創設時に顕彰されていた。新しい企業経営の道を拓いたカルロス・ゴーンは、二〇〇四年に殿堂入りしている。

 二〇一一年に殿堂入りした吉田真太郎の表彰状には、「あなたは自動車づくり草創の明治期に欧米車と伍して走る国産車『吉田式』を製作、開拓者魂をもって苦難を乗り越え、貸自動車ハイヤー業や販売業への挑戦など、自動車産業の発展に多大なる貢献をされました。その偉業をたたえ、ここに日本自動車殿堂者の称号を贈り表彰いたします」と記されている。

 日本に最初に自動車が出現したのは、明治三十年代になってからで、西欧諸国から遅れること百年以上。イギリスのジェームズ・ワットが蒸気機関を開発したことにより、産業革命がおこり、十八世紀に蒸気自動車が登場している。日本に自動車が渡来したころは、すでにイギリスやフランスでは、都市間を移動するバスが運行していた。

 日本では、律令時代から車を使わず、馬と人で公用の書状や荷物を宿駅から次の宿駅へとリレー式に運ぶ伝馬制が採用されてきた。日本橋を起点に五街道を整備した江戸幕府も、宿駅伝馬制を採用し、馬車や馬などの乗物の使用を制限していた。大名が参勤交代で江戸と領地を往復するときも、馬車や馬に乗ることはできなかった。

 迅速に走る馬車の使用を禁止したのは、幕府に不満を持つ大名が謀反を企て、大量の武器や兵糧を積んで江戸へ攻めてくるのを防ぐためでもあった。

 農民が田畑を耕すために牛や馬を使うことは許されていたが、荷車を引かせることは禁止されていた。馬や牛に荷車を引かせることができたのは、江戸と京都だけで、人力で引く大八車を使うことができたのは、江戸と駿府だけだった。そのような背景から、日本では車文化が発展していなかった。

 横浜開港後、颯爽と風を切って走る馬車は文明開化のシンボルのひとつとして日本各地に広がっていった。

 明治三十一年、横浜在住のアメリカ人が輸入したオリエント蒸気自動車、アメリカン・トレーディング・カンパニーがフランスから輸入した石油発動自動車などの諸説がある。横浜のブルウル兄弟商会が輸入したアメリカ製の蒸気自動車ナイアガラが販売目的に輸入した最初の自動車といわれている。

最初は兄弟三人で自転車輸入業

 自動車史に名を残した錚々たる人物の一人吉田真太郎は、吉田寅松の長男として、明治十年に東京市芝区芝公園七号地に生まれた。

 自動車の渡来とほぼ同時期の明治三十年に、真太郎は弟の銈次郎と勝三と三人で京橋区木挽町四丁目に自転車輸入販売業の「双輪商会」を設立。アメリカから輸入した自転車「デートン」を大ヒットさせた。

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