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鶴見区 コラム

公開日:2025.10.16

「土木事業者・吉田寅松」65 鶴見の歴史よもやま話
鶴見出身・東洋のレセップス!?
文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略

アメリカから凶作地支援

 自転車乗りで名を馳せた吉田寅松の三男、勝三は、明治十五年三月に生まれ、明治二十五年に北寺尾の寅松の生家である鶴田家の家督を相続し、鶴田姓を名乗った。

 勝三は、富士山で自転車競走をしたあと、父寅松からの資金提供をうけ、明治三十七年にアメリカに留学し、ボストン大学を卒業、さらにエール大学に入り工学を学んできた。

 勝三がエール大学に在学中の明治三十八年、日本の東北地方では冷害で大凶作・大飢饉が起こっていた。「天明以来の大飢饉」「東北三県大凶作」といわれ、被害は特に宮城県(八十七%減)・福島県(七十六%減)・岩手県(六十六%減)で甚大であった。

 このニュースはアメリカにも届いた。朝日新聞明治三十九年四月十日に「在米国日本人倶楽部の凶作地救済演芸」の記事がある。

 「東北凶作の報、米国ニューヘブン市のエール大学に伝わるや、同市在留の日本人倶楽部員は一同協議のうえ救済演芸会を組織し、中川末吉、鶴田勝三、鈴木市之助、瀬川巌、松尾武夫の諸氏率先運動し、同市貴婦人の賛同を得て三月十二、十三の両日ガレーヂ、ストリート、ホールに開演し、一千五百円の入場金を得た。演芸会は、ことごとく日本人学生の手になり、エール大学音楽部の寄付演奏あり、二三の日本人技藝家をニューヨーク市から招聘し大成功をもってその終わりを告げた。番組中日本劇は非常の喝采をもって迎えられたりと同地より通信ありたり」

浅野総一郎の三女と結婚

 鶴田勝三は、エール大学を卒業して明治四十一年に帰国し、浅野総一郎の三女幸と結婚した。

 華族女学校出身で美人の誉れ高い幸は、明治三十三年に渋沢栄一の媒酌で第一銀行の清水泰吉と結婚し、日清戦争後に夫の勤務地朝鮮で一男二女をもうけたが、泰吉が早世し、若くして未亡人になっていた。美しい未亡人幸は、容姿端麗な二つ年下のアメリカ帰りの青年、鶴田勝三と恋に落ちた。

 幸の父浅野総一郎は、留学前に自転車競技の名手として名を馳せていた勝三のプレイボーイ的な華麗な経歴を危惧し、二人の結婚に猛反対。幸は勘当されたが、法曹界の権威常松栄吉の仲立ちで許され、勝三と結婚した。

 アメリカで先進的な工業技術を学んできた勝三は、浅野総一郎が力を入れていた関東水力の経営をまかされた。その後も数度にわたりアメリカの水力発電所を視察し、最新の技術や知識を活かして、その実力を発揮した。

 昭和七年、鶴田勝三は、磐城炭鉱株式会社の技術顧問として、大正二年に坑内湧水により水没し、十八年間採掘不能で廃坑になっていた磐城炭鉱綴竪坑を再生させた。

 水没区域の溜水と湧水を排出するため、綿密に現地調査を試み、水力工事の施工に用いていたセメント注入法で出水口を閉塞し、湧水を完全に阻止し、排水も容易に完了させて、日々数百トンの出炭を可能にした。

 鶴田が採用した高圧ポンプ設備と急硬セメントによる強力施工法セメンテーションは、一八六四年(元治元年)にフランスのフォチャーが試み、その後イギリスのフランソワーなどによって使われていたが、日本では初めての試みだった。廃坑を再生させた点では、世界的な記録とも言われている。

 この工法を採用するにあたっては、水力会社や鉄道技師などに協力を求めて難工事を完成させた。鶴田勝三は、土木請負業で一代を築いた吉田寅松の人脈や生きざまを受け継ぎ、磐城炭鉱株式会社中村電氣株式會社社長、武藏水電株式會社專務取締役、鶴見埋築株式會社水力部長、昭和礦業常務、磐城炭礦常務、土木雑誌「工事畫報」社長などを歴任し、妻の幸とともに大本山總持寺の浅野家の広大な墓地の中に眠っている。

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