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鶴見区 コラム

公開日:2022.09.15

「土木事業者・吉田寅松」44 鶴見の歴史よもやま話
鶴見出身・東洋のレセップス!?
文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略

庄内平野を美田に変えた吉田堰



 庄内平野に吉田寅松のかかわりを伝える用水路「吉田堰」がある。



 水田が広がる米どころ庄内平野は、江戸時代初めまで荒れ野だった。慶長十七年(一六一二)に出羽山形藩初代城主最上義光の重臣で狩川館主の北楯利長が十年にわたる新田開発の調査を経て、立谷沢川から約十キロの潅がい用水路を開削した。その後の延長工事で三十二キロの水路が開削され、約五千ヘクタールの新田が開発され五十七年間で、四十六の村を誕生させた。北楯利長が開削した用水路「北楯大堰」は、潅がい農業の発展に貢献した歴史的価値などが評価され、二〇一八年(平成三十)に、「世界かんがい施設遺産」に登録された。



 最上川下流左岸の北部は、北楯大堰の恩恵を受けていたが、最上川下流左岸には高地の続く岡所(おかどころ)と呼ばれる高燥地が沢山残っていた。岡所では大麦、小麦、大豆、小豆、蕎麦、粟、菜種、葉藍などの畑作が行われていた。



 菜種は搾油して食用や燈火用になり、搾りかすが肥料となる菜種は、米と同じような高値で取引されて いたが、生活様式の変化で菜種油は石油に代わり、葉藍はインドから安価な藍玉が輸入されるようになり価格は大暴落。大豆や小豆も北海道産におされて安値で取引されるようになり、岡所の農家は経済的大打撃を受けた。



 庄内の篤農家佐々木彦作は新田開発のためにかん潅用水路を張り巡らせることを計画し、「堰開発絵図」を作成し、文久四年に庄内藩に願い出たが、「百姓に何ができる」と、却下された。



 諦めきれない彦作は、明治維新後も陳情しつづけ、明治十年に山形県令三島通庸の認可をうけ、私財を投じて試掘を開始した。三キロほど掘り進めたが、最上川の洪水に阻まれ、技術的にも未熟だったため事業は失敗。彦作は、無念の中で息を引き取った。彦作の息子の寅太郎は、苦しい家計のなかで父の遺業を受け継いだが、開削事業はまたもや失敗、志むなしく世を去った。事業は彦作の孫の健太郎が引き継いだが、想像を絶する難事業で挫折した。



地元有志の依頼を受け



 国家的な大事業舞鶴海軍工廠の敷地造成・軍港建設工事を成功させ、奥羽南北両線の難工事も竣工させていた土木請負業者、吉田寅松の名は庄内地方にも知られていた。



 明治三十六年、余目村など岡所の村々の地主有志が、東京の吉田寅松に新堰開削を依頼した。



 依頼を受けた寅松は現地に行き、新堰予定地の実地踏査を行った。土地が肥沃で面積も広く平坦地で用水の開削工事が容易にでき、投資効果も大きいと判断した寅松は、用水開発による開田計画案を作成し、自費を投じて新堰開発工事を引き受けることにした。



 余目村の村長とのトラブルもあり、一時は事業を断念したが、「新堰が完成した時には水代米(みずまいだい)を払うので、どうしても新しい堰を造ってほしい」と懇願された寅松は、関係村々の農民の同意書を集めることを要求した。各村有志が一日で集めた同意書を持って、寅松は用水堰開発事業に乗り気でなかった関係町村役場を説得して回った。さらに地主と耕作者の組織をつくり、関係者有志の協力を得ながら、用水開削用地の確保や開削後の経費負担などの問題を整理、解決して事業を進めた。



 「用水堰開削に関する工事費は、すべて吉田が負担し、地主は完成後に開田一反歩につき玄米五斗、古田は三斗ずつ七か年間、吉田に支払うこととする」という計画に基づき、「吉田堰普通水利組合設置申請書」を山形県に提出した。明治三十六年十一月に山形県知事田中貴道が余目村など新堰開削により利益を得る五か村の村長に「水利組合委員」を命じ事業を認可した。しかし、明治三十七年、日露戦争を目前にした国は、諸銀行の貸し出しを中止させた。

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