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鶴見区 コラム

公開日:2022.10.20

「土木事業者・吉田寅松」45 鶴見の歴史よもやま話
鶴見出身・東洋のレセップス!?
文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略

寅松の見識伝える吉田堰

 用水堰開削事業は、寅松自身も軍事物資の取引に失敗し資金の目途が立たなくなり、予定通り進めることができなくなった。吉田堰普通水利組合管理者の東田川郡長の関原彌里と事業を推進するための協議を重ねた結果、寅松は開削事業から撤退することにした。

 その後、吉田堰普通水利組合が引き継ぎ、明治四十年四月に着工し、四十三年八月に九百九十町歩(九百八十二ヘクタール)を美田に変える吉田堰用水を竣工させた。

 吉田堰用水から引き込まれた最上川の豊富な水が、庄内平野を広大な美田に変え、安定した水田経営がおこなわれるようになった。吉田寅松は用水開削工事には直接関わらなかったようだが、様々に、吉田堰開削事業に大きな役割を果たしていたことを伝えている。

 二〇一二年発刊の最上川土地改良区編著「庄内平野 水土の歴史」には、「吉田堰普通水利組合が直ちに事業を引き継げたのは、吉田寅松の見識の高さとともに熱意ある地元住民有志たちの組織づくりができていたためであった」と記されている。また、庄内日報社ホームページの「郷土の先人・先覚335」には「事業家吉田寅松によって彦作の夢が明治四十三年八月に実現され九百九十町歩が開田された」とあり、二〇一九年二月二十日発行の地域情報誌「和合」には、「東京の実業家である吉田寅松らが立ち上がり、明治四十三年、現在の吉田堰が完成しました。岡所は美田に生まれ変わり、村民は多くの収入を得ることができたのです」とある。さらに、東北農政局ホームページ「東北農業の歴史・歴史年表」「東北地方の農業農村整備」欄に明治四十二年佐々木彦作、吉田寅松により東田川郡立川町大字清川〜余目町〜酒田市大字落野目間に吉田堰幹線支線、開拓工事を完了」とある。

 庄内の人たちは公益のため新たな堰の開削事業を起こした佐々木彦作の遺志を称え、「吉田堰」を「彦作堰」とも併称し「佐々木彦作君功労之碑」も建立し顕彰した。

 「最上川土地改良維持計画図」には、吉田幹線、吉田二号支線、三号支線...、七号支線など多数の支線が張り巡らされており、各種の日本地図にも山形県庄内平野に「吉田堰」が表記されている。吉田寅松が、地元有志から潅がい用水堰建設の依頼を受け、実地調査をして、地域の人々を組織化させ、潅がい用水堰開削計画案を作成し、県の認可を得られたことにより、佐々木彦作の悲願を実現させることができた。「吉田堰」の名称も、この用水堰の開削に吉田寅松がかかわっていたことを伝えている。

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