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鶴見区 コラム

公開日:2023.05.11

「土木事業者・吉田寅松」49 鶴見の歴史よもやま話
鶴見出身・東洋のレセップス!?
文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略

博覧会で日本初の電車

 明治二十三年四月一日から七月三十日まで、上野公園で開催されていた第三回内国勧業博覧会中の五月四日、大日本東京電燈会社(東京電力株式会社の前身)が上野公園内、現在の国立西洋美術館から科学博物館の辺りまで約三百十メートルに電車軌道を敷設し、日本で初めての電車を運転した。

 アメリカから輸入した二両の客車を改造して十五馬力の電動機を一台据え付けて、車両の両側に二十人ずつ座れる腰掛を設置し、一両に五十人の乗客を乗せた。料金は大人二銭、子ども一銭。短い距離だったが、ゆっくり走る電車は揺れもなく乗り心地もよく、電気や電気鉄道が実用的かつ利便的であることをアピールした。

 内国勧業博覧会終了後、上野の電気鉄道は運転はやめたが、各地で電気鉄道敷設を計画するようになった。

 電気鉄道は電線、電柱、電車、発電機、蒸気機関などの開業費は馬車鉄道より約三割高となるが、営業経費は節減できる。

 東京馬車鉄道は、一マイルにつき年平均二千余円の馬匹飼養料を要するが、電気鉄道は一マイルにつき年七百円前後の石炭費で足りるため、電気鉄道は馬車鉄道よりもはるかに多くの収益を上げることができる。

 明治二十六年頃から東京馬車鉄道や雨宮敬次郎の東京電車鉄道、藤山雷太の東京電気鉄道や品川電気鉄道、吾妻橋電気鉄道、城北電気鉄道、東京参宮電気鉄道、洲崎電気鉄道、永代電気鉄道、中央電気鉄道、府内電気鉄道、青山電気鉄道など六十数社からさまざまな路線の電気鉄道敷設請願が出され、明治三十二年にいたるまで特許認可をめぐる激しい対立が続いていた。

 明治二十六年七月、京都電気鉄道が内務省の敷設特許を得て、明治二十八年二月一日に日本で初めての電気鉄道事業を開業させた。

利益優先の馬車会社

 乗合馬車や鉄道馬車は、公道を独占的に使い、営業収益を上げていながら、市民の利便よりも会社の利益を優先し、道路修繕などの公的義務を十分に果たしていなかった。東京馬車鉄道は、全盛期には年三割五分という株主配当をしながら、道路の修繕などの問題には消極的な態度をとりつづけていた。

 明治二十八年、雨宮敬次郎は、築地・深川・本所を結ぶ大阪電燈会社の長谷川延技師を顧問として実地調査をおこない定款を作り事業予算も立て、全市の利害に関する事業なので市内有力者八十余名を芝の会員制高級料亭、紅葉館に集めて発起の趣旨を述べ、快諾を得て、機運到来と東京市電気鉄道計画を発表した。

 東京市街への電気鉄道敷設を請願した事業者たちは、公益よりも企業利益を優先していることに義憤を感じた吉田寅松は、私財一万円を投じて正義の士を募り、公利公益、市民に利便する適正な市内電車敷設案を作成して内務省に提出した。

 民間は、利益が優先され、市有は公共の利益を優先する。市有にすれば築港、道路、下水その他の事業にも用いられる。民間でも真に公益を思う計画ならよいが、大半は利益が優先されている。東京の市街鉄道は、市公債・外債なども活用して、全国各市の模範となるようなものにするべきである。

 寅松は、内務大臣西郷従道を沼津の別荘に訪ねて、市民の利益のために市内電車の必要性を力説した。西郷従道への具申も功を奏して、公共心の熱い寅松の公利公益を基本とする市内電車敷設案が採用された。

 その後、紆余曲折を経て明治三十三年、東京馬車鉄道と雨宮敬次郎と藤山雷太たちが合同で設立した東京市街鉄道、川崎電気鉄道の三社に敷設許可がおりた。

【訂正】

前回のコラムで寅松の妻の名前に誤りがありました。正しくは芳子です。

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