鶴見区 コラム
公開日:2025.07.24
「土木事業者・吉田寅松」62 鶴見の歴史よもやま話
鶴見出身・東洋のレセップス!?
文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
自転車月刊誌に寄稿
吉田寅松の三人の息子たちが経営していた双輪商会については、角田安正著『自転車物語 スリーキングダム 王国の栄枯盛衰』、佐々木烈著『日本自動車史』、大津幸雄編著『日本自転車資料年表(江戸・明治編)』などから抄録する。
明治三十年、自転車は売れると見込んだ三兄弟は、銀座に自転車輸入販売業「双輪商会」を設立した。長男真太郎二十歳が経営を統括する会長、二男銈次郎十八歳が社長、十五歳の三男鶴田勝三は自転車乗りの選手としてデートン号に乗って自転車競走で活躍した。
容姿端麗な若き貴公子鶴田勝三が颯爽と風を切って走らせる深紅のデートン号は大ヒット。自転車ブームを引き起こしていった。
長さ四十五メートルの自転車練習所もつくり勝三の所属する双輪倶楽部の事務所も併設し、自転車の普及に力を入れた。文章が得意だった真太郎は「紅輪生」のペンネームで自転車月刊誌「輪友」に寄稿した。
自転車競技のメッカ不忍池
日本における自転車競走会は明治二十八年、外国人が横浜外人居留地のクリケット場で開催したのが始めとされている。
一方、日本人だけの競走会は、明治三十年に双輪倶楽部が上野の不忍池で開催し、二十名が参加した不忍池周回競走会が始めとされている。この競走会で双輪倶楽部所属の鶴田勝三が優勝した。
不忍池の競走会は以後帝国輪友会と双輪倶楽部の対抗戦等も行われた。毎年春と秋に定期的に開催されるようになり、上野不忍池畔は自転車レースのメッカとなった。
明治三十一年三月五日発行の雑誌「運動界」の記事に、横浜居留地の外人により組織されたジャパン・バイシクル・クラブ(日本自転車倶楽部)と東京双輪倶楽部の人々との合同サイクリングが二月二十一日に横浜の本牧あたりで開催されたと報じられている。鶴田勝三も当然参加していた。
明治三十一年十月五日に千葉街道の市川・逆井間で行われた五マイルの自転車競走会で鶴田勝三が優勝した。
十一月六日、上野不忍池畔で五十余名の外国人も参加した内外連合自転車競走会が開催された。
会場の入口には、開催を祝う月桂樹などで飾ったアーチが掲げられ、会場中央には万国旗や提灯が張り巡らせ、祝祭気分がただよっていた。
来賓席の左右には高等音楽隊と市中音楽隊の控え所もある。下田歌子が率いる華族女学校生徒・令夫人・令嬢が花を添えた。日本女性で最初に自転車に乗った新橋の売れっ子芸者「松の家ゑつ」など、花柳界からも多数来場し、大いに盛り上がった。ゑつは、後に鶴見に花月園遊園地を開いた平岡広高の妻静子の芸妓時代の名前。
池の周囲を一マイルとみなし、決勝点も定め、会員五百余名がそれぞれの自転車で入場。十一時三十分競走開始。子供競争、提灯競争、一マイル選手競走など全て目新しい競技が繰りひろげられた。大人競走に参加した口付き紙巻たばこ「天狗煙草」で財を成した「大天狗」こと、岩屋松平は、天狗を連想させる真っ赤な服を着て、真っ赤な自転車に乗って競走会に参加。「会社の宣伝だ」「アマチュア規則に違反する」として、物議をかもし、転倒して、会場の笑いを誘った。
道成寺に扮した曲乗り選手が十台の自転車を連ねて池畔を一周し見物人から拍手喝采を浴び、五マイル競争、傘持ち競争など趣向を凝らした競技で見物人を楽しませた。
最終レースの二十マイル選手大競走は、横浜日本バイスクル倶楽部の選手ドラモンドと双輪倶楽部の鶴田勝三の一騎打ち。午後五時に開始したレースは日没になっても決着がつかず、午後六時、鶴田が一車身以上の差をつけて勝利した。
吉田寅松は、自転車競走会にも協力を惜しまなかった。娘道成寺に扮した選手が乗った十台は、吉田組が寄付した自転車だった。
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