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鶴見区 コラム

公開日:2025.09.25

「土木事業者・吉田寅松」64 鶴見の歴史よもやま話
鶴見出身・東洋のレセップス!?
文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略

颯爽と自転車を漕ぐ芸者

 明治三十一年九月、風刺画で有名なビゴーが雑誌『日本人の生活』に「自転車に乗る芸者」の絵を描いている。

 三味線を背負い颯爽と走る芸者のモデルは、新橋松の家の「恵津」という芸妓だった。

 松の家の「恵津」の本名は、「河野静」。河 野 静 は 、 鶴 ⾒ 花 ⽉ 園 を 開いた平 岡 廣 ⾼ の 妻 静 ⼦ の 本 名で、明治九年に岡山で生まれた。父は腕のいい彫刻師で才気煥発な人物だった。静は、美貌と才気で評判の少女で、小学生の頃、妹せんと一緒に習っていた日本舞踊の温習会では、美しい河野姉妹の合舞が特に人気が高く、大入り満員になったという。

 静は、明治二十九年頃、上京し、新橋の芸者屋小松家の抱技となったようだが、明治三⼗⼀年の夏、「松の家 恵津」として独⽴した。恵津は好奇心旺盛な女性だった。客にねだって自転車を買ってもらったのだろうか。ビゴーが描いた自転車に乗る芸者は、恵津だった。三味線を背中にくくりつけ、着物の裾をたくし上げて自転車にまたがり、素足でペダルをこぎ、颯爽と走り抜けて行った。

 美人で才気煥発、英語も話せたという恵津は、新橋の売れっ子芸者となり、新橋の料亭花月楼の主人平岡広高と結婚し、平岡静子となり、「マダム平岡」と呼ばれるようになった。

自転車史にも名を残していたマダム平岡

 平岡夫妻は、明治四十四年のヨーロッパ旅行中に訪れた、パリ郊外のすべてが児童本位に造られていた遊園地をモデルに、大正五年、日本で最初の児童遊園地「鶴見花月園」を開園した。

 静子は、花月園の中に、日本で最初の営業用ダンスホールを開き、さらに東京赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」の経営にかかわった。フロリダを開業する頃、平岡夫妻は離婚し、静子は、旧姓の河野静に戻った。さらに、蕨市にダンスホール「シャングレー」を開くなど、日本の社交ダンス史にその名を残した河野静は、日本で最初に自転車に乗った女性でもあった。

デートンブームに火をつけた女学生

 明治三十三年には歌人で女子教育の先駆者下田歌子を会長として、女性だけの自転車倶楽部「女子嗜輪会」も誕生した。

 東京音楽学校に入学した十七歳の少女、三浦環が、海老茶色の袴姿で、父に買ってもらった深紅色の婦人用自転車に乗って、芝の自宅から上野の音楽学校まで通学した。

三浦環は、音楽学校卒業後、プッチニーの「蝶々夫人」で、世界的なオペラ歌手として活躍し「マダム・バタフライ」と称されたが、自転車美人としても有名だった。赤いデートン自転車に乗り、颯爽と走る美しい女学生たちをモデルにした小杉天外の小説『魔風恋風』が、明治三十六年二月から九月まで読売新聞に連載された

 「鈴の音高く、現れたのは、すらりとした肩の滑り、デートン色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして、白リボン清く、着物は矢絣の風通、袖長ければ風になびいて、色美しく品高き十八九の令嬢である。」

 『魔風恋風』の連載がはじまると、若い男女が先を競って読み、明治三十六年に出版された単行本は、梶田半古のデートンに乗る美しい女学生の挿絵で評判になり、デートンブームをさらに拡大させた。

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