高津物語 連載第九七五回 「高津高女校舎の行方」
昭和三年「高津町立高津実科女学校」創立、のち「実科」を廃して「高津町立高津高等女学校」となった。
後に川崎市と合併して「川崎市立高津高等学校」となった。
昭和十九年八月一日、川崎市末長二八二番地に校舎を新築移転した。
末長の「旭ヶ丘校舎」は仮校舎で、戦争が終わり次第、高津高校は旧校舎に戻るものと、私は思っていた。
法律上、高津高校校地は「日本光学川崎工場」の国有地に変わっていった。
戦争とは、本当に恐ろしいものである。
日本が太平洋戦争に敗れこの国有地を、東京都大田区旗の台日本光学大田工場跡地を買ったのは「学校法人立正学園」であった。
ついでに川崎市溝口の日本光学溝口工場跡地も、立正学園溝口小学校と溝口幼稚園用地として買収された。
久本の日本光学跡地は、洗足学園用地で、余りに広大なので、通産省地質調査所(現川崎北税務署)が入った。
また、高津保健所と共に駅前一等地にあった「南武朝鮮人学校」も、川崎北税務署南側に移転して、駅前再開発の端緒を作った。
また日本光学高津工場は現在建築中の「帝京大学付属溝口病院」の場所にあり、現在九階建ての大きなビルが建築中で、再来年の開院に向け、準備が進められている。
ここも前身は「三真製綿工場」であったが、火災を出して操業停止となった。
その後「東京時計高津工場」となった。
同族の経営になる「タカツ・ボーリング場」等に手を出したが、時代の波に乗れず、消えてしまった。
昔、玉川電車が「のんびり」と地上を走り、高津駅に止まっていて、お客が来ると待っていてくれた光景を思い出す。
大井町線が溝口に乗り入れて、府中県道に「開かずの踏切」が出来た。この踏切で、交通事故が多発した。
「日本光学川崎工場」の溝口進出で、溝口は大きく変わった。立正学園も例外ではなかった。
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