連載第一〇一四回 高津物語 「医療から村政へ」
三百年もの昔の話である。
久本の旧家、今は久本「薬医門」公園として定着している元の主、旧岡家第四世岡道栄は、岡家の伝統を継承すると同時に、「医学稽古所」を久本の地に建立して、東京西南部の医療拠点として、溝口を近代医療の先駆けにしようと、地方行政官である神奈川県知事に願書を提出している。
文書名を「医道勧学場建立願書」というが、岡家四代目は、久本の地を旧態依然とした雰囲気をぶち壊して、明るく活気のある村に変えようと躍起だったのだ。
古文書「武州橘樹郡『鈴木藤助日記』安政六年(一八五九)六月九日」を見ると「九日 乙亥大安 雨降、六郎兵衛来、菊来る、おこと大谷帰る」とある次に「岡道栄見舞ニ来囲碁仕候」「由蔵薬鳥行、云々」とあり、度々長尾の鈴木家に往診に出掛けた模様である。
往診は通常は馬を使って行われたようだ。
馬が引く「往診用カバン」等をいれた車付小道具入れは現在、愛知県犬山市の「博物館 明治村」に一括寄贈され「川崎市久本・岡コレクション」として一般公開されているから、ご覧になった方も多かろうと思う。
日本画家の岡信孝氏は現在、久本を離れて、横浜市にお住まいであるが、先生の持論は、日本人の価値基準が時代の流れが速すぎて、時代状況を冷静に見つめる「自分」を掴み切れないでいる。それに反して「西洋の人間存在の価値の基準は、伝統を護ろう護ろうと努力して、時代の状況をみつめる自分をしっかりと掴んでいる」と話されている。
岡信孝氏の尊敬する恩師の一人、日本画家故奥村土牛先生は「現代の人は、上手に描きすぎる。上手に描くことは誰にも出来るが、上手に描けることを、抑えるのが難しいのだ」と言われたと、岡先生から伺ったことがある。
「十年奈良に通って絵を描き始め、法隆寺とか東大寺とかに、目が行きます。十年通って良かったなあと思いますのは、路傍の花にも古都奈良を感じられるようになった事です」と謙虚に言われた。十年も二十年も前の話である。
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