連載第一〇一八回 高津物語 「二子玉川」
国分寺崖線の「崖の連なり」は多摩川が、十万年以上の歳月をかけて武蔵野台地を削り取ってきた段丘とその周辺に残る樹林や湧き水等は今も世田谷区の貴重な資源となっている。
清流と美しい景観を持つ多摩川は江戸の人々にとって格好の行楽地であった。
とりわけ、徳川幕府十二代将軍、後の徳川家慶が天保十二年(一八三一)二子玉川遊覧を行った。
後に水野忠邦に命じ「天保の改革」を行った通称「西の丸内府」の青年時代だ。
この時召し上がった「多摩川の鮎」が余程お気に召して、二年後天保十四年から多摩川を御留川に指定して、多摩川の鮎は将軍献上魚に指定、庶民から遠い存在になった。一般人は「相模川の鮎」を食用し「鮎担ぎ歌」が街道に流れた。
明治以降は禁制が解け二子や登戸は鮎の名所となり、二子玉川周辺の「玉川八景」とか「行善寺八景」とか称された風景が、江戸の人々に持て囃された。これを題材にした多くの紀行文や絵画が生まれ、木版画なども発行されたという。
明治・大正時代には、渋谷から四〇分で着く玉川、瀬田「二子の渡し」付近に、多くの東京市中の人々が出かけてきた。
遠足と言えば、多摩川べり、と言われた時代だ。
かがり火の
影にぞしきる玉川の
鮎ふす瀬には
光りそいつつ
武蔵
鮎魚の季節には、料亭や旅館、料理屋で、とりたてのアユ料理などを食べて遊興したため、岸辺に多くの料亭が並び、世田谷を代表する観光地となった。
大正元年(一九一二)『東京遊覧案内』に、「船宿は玉泉亭、亀屋、柳屋、喜月楼。柳屋の柳青丸は五〇人乗り、便所付き…」との説明書きもある。明治末期から大正初期にかけ、多摩川で「鵜飼」もできたというし、鮎魚の季節には、川面に浮かぶ屋形船の提灯の光で、料亭や屋形船で、とりたての鮎料理などを食べて遊興したという。
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