連載第一〇二三回 「渡し場サミット」 高津物語
「多摩川の渡しに思いをはせて、つなぎたいふるさとの川と歴史と文化」を追及する「多摩川渡し場サミット」が、十一月二二日午後、大山街道ふるさと館で開かれた。午前中、佐藤忠氏の案内で二子の渡しを訪ねる「まち歩き」が予定されていたが、あいにくの雨で中止になり、残念だった。
午後は、大山街道ふるさと館で「渡し場サミット」があり、大井海岸の芸者が日本舞踊で開幕を飾った。
続いて川崎市建設局長藤倉氏、国土交通省京浜河川事務所長服部氏の挨拶があった。続いて私が基調を行って、二子の渡しの歴史を語った。話している内に分かったことは、如何になつかしく、多摩川の昔を思っているか、という事だった。
その為に、私は多摩川のこと、渡しのこと等をできるだけ調べて、レジュメにして、当日配布したが、時間の関係で割愛せざるを得なかったことがある。それは、明治三八年と四三年の二回にわたる大洪水の大惨事は高津町の初めての経験だったということだ。
この復旧のため大正九年に多摩川の土堤工事が行われ、現在の堤防が完成した。堤防が完成すると、人々は春から夏までの「渡し」と、秋から冬への「仮橋」の架設を望み、各方面に要望したが、全く聞き入れられなかった。
最後は林喜楽氏の文書での請願だったが、陸軍大演習の後、三本の「仮橋」の許可は何故か下りなかった。高津の人々は何故だろうと不思議がったが、その裏で「二子橋」の架橋が用意されていたのだ。
しかも、二子橋の高さは、十五メートルで、あの大洪水の最高位十五メートルであったから、人々は安心したのだろうと思う。
二子橋の開通で、町に電灯がつき、便利になったが、困った問題が持ち上った。玉川砂利の採掘で、良質の玉川砂利が、東京の震災復興の一大資源として利活用され、南武線や玉川電車が中央線で運ばれ、東京の復興に活用された。
それでいいではないかという意見もあるが昔はいい砂利が一杯あったと思う。
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