連載第一〇四五回「連休に兄二人を想う」 高津物語
兄二人が死んで今はもう居なくなり、私一人が生き残ることになるとは、夢にも想像がつかなかった。
その頃のわが家は鈴木農園といって、温室があり、メロンや熱帯植物が実っていた。庭には柿の木三本、なつめの木があり、友達がたくさん遊びに来ていた。
昭和十年代、多摩川の土手ができて、二子橋が架かって玉川電車が溝の口まで乗り入れて、昭和十四年の東京オリンピックが駒澤競技場で開かれるという、希望に満ちた時代だった。
それが東條首相の出現で一転、戦争の悲劇に落とし込まれた私は小学校三年生、楽しかった一家の心が離れてバラバラになり、祖母は脳溢血になってしまう。たくさんあった土地も農地改革でなくなり苦しい生活を共にした兄二人だった。
長兄はロータリークラブ、次兄は京都大学仏文科に生き甲斐を見出した。
桑原武夫、伊吹武彦、生島遼一、多田道太郎などそうそうたるメンバーに憧れて京都大学に進学したまでは良かったが、宇治分校での授業が隣の自衛隊宇治駐屯部隊の実弾演習に暫々中断されるに及び、兄は現実に目覚め学生運動に挺身し、スタンダール、モーパッサン、サルトル、ボーボワールどころではなくなって、井上清先生ら日本史学に転向していき、大学院に進み奈良女子大付属高校教員の後、立命館大学教授となる。正に波乱万丈の人生だったが教え子に「おしん」を演じた女性がいるとも聞いた。片やロータリークラブ、片や平和運動に挺身していった兄二人を私は回想するのみだ。
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