連載第一〇四八回「高津の転換期」 高津物語
高津町が大きく、日本史の転換期に登場してくるのは、皮肉にも、明治四三年(一九一〇)年であった。『高津物語』が、読者諸氏の熱烈な声援にも拘らず、明治末年から大正初年時期で歩みを止め、何度も足歩みしているのは、日本史と世界史の丁度合流地点に差し掛かり、幸運と言おうか、運命と言うべきか、東京近郊―東京西南部の多摩川を渡った「高津町」が、歴史の焦点を担うこととなる「歴史的運命の転換地」となるのだ。
具体的には明治四三年の多摩川の大洪水であり、高津町が水没する歴史的大事件のあったこと。
この大洪水が契機となって高津町民の悲願であった一つに、洪水を防ぐ土堤の完備であり、特に水路の完備だった。
多摩川堤防築堤は高津町々民の悲願だった。工事開始が、やや遅れはしたが、内務省は、多摩川河口から久地に至る多摩川河口から久地に至る多摩川右岸改修工事が開始され、小向に改良工事事務所を設け大正九年から工事に着手した。
大正一二(一九二三)年の「関東大震災」が起き、帝京大学溝口病院旧病院にあった高津小学校が倒壊した。
震災から二年後、大正一四(一九二五)年に「二子橋」が完成。玉川電車が玉川を越え溝口まで乗り入れ、東京渋谷が身近となり、玉川電車の余剰な電気を譲り受けて、高津町の各村に電灯が点灯され、南武線も開通して、高津町は近代化の波の恩恵を受けるが、待ち受けていたのが、軍事主義化への道だった。この近代化の過程で多摩川の大量の土砂が東京のビルディングの壁の材料となった。
これらの近代化の道を思い、呆然となる。
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