連第一〇五三回「賑わった大山街道溝口」 高津物語
一九一〇年代の溝口の変貌の中心をなしたのが、一九二五(大正一四)年の二子橋架橋だった。
その頃の大山街道溝口宿では蚕から繭をより分ける大きな建物が並んでいたが、二子橋開通の頃には繭をやめて梨や桃をつくるようになったり、製紙工場をやめて油を搾る仕事に変わっていった。桑畑には多摩川梨や桃が植えられ、一面梨と桃畑に。久地の寄せ場には二千箱も集まった時期もあり、桃の花が一斉に咲く頃は高津地区一帯が“桃源郷”になった。
二子橋が架かると街に電灯がつき、石油ランプは姿を消したが、久本の岡医院の珍しいランプ・コレクションが愛知県犬山市の野外博物館「明治村」に岡コレクションとして展示されている。
大正八年頃の高津十字路になった頃、人力車が六、七台人待ちする写真が残されていてガスの街路灯も見える。やがて溝口十字路角から「つるや自動車」の乗合が川崎駅まで出て、南武線が通るまでの代替をしたが、のちに東急バスに代わる。
溝口は日本橋との関係が深く、上田家が醤油販売店を日本橋に持ち、川崎北部の中心だった。このため、溝口神社前の橘屋市場、宗隆寺前の“樽屋市場”があり、溝口近隣をはじめ原町田、厚木、橋本、八王子、府中、調布、世田谷方面からも人々が溝口青物屋に集まった。主に南瓜や西瓜が中心で一日馬車二〇台分以上の取引があったという。昔の溝口は賑わった。
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