連載第一〇七五回「若き日」 高津物語
若き日、私にも多くの転機があった様に思う。先輩が「やってみろよ」と相談を持掛けてくれた最初の話は、大学院生の頃、オーストラリアの首都キャンベラで、日本語教師を探しているという話だった。地図帳で調べると、オーストラリアの首都は下の方にあった。日本に「養殖真珠」を輸出している会社の本部が、キャンベラにあり、真珠の養殖をしている現場は「アラフラ海」にあるという話であった。アラフラ海は、オーストラリア北端とニューギニア島南西岸との間にある浅瀬で、真珠貝の養殖が盛んで、そこの海で採取される真珠は、殆どが日本本土に輸出される。そのために、日本語の習得は、必修なのだという話であった。日本文学科の院生であった私は、大いに触手を伸ばして、正直「行っても良い」と思って、前任の慶應義塾大学の平松さんに会える所まで行った。日常会話は英語であり、気候も温暖で、過ごし易いという話であった。三男坊の私は別にどこに行っても良かった。長兄も京都にいる次兄も反対しなかった。ただ、祖母が反対した。連れ合いが早く死んだので、女手一つで、切り盛りをしてきた「明治女」の発言は、力があった。「よせ」たったの一言で決まってしまった。この後、友人が自分の母校、大分県の県立高校の国語科教員の空きがあるから行かないか、との話を持ってきてくれた。どんな所か皆目判らなかったが為、友人と一緒に、九州まで下見に行った。生まれて初めての九州旅行で本当に勉強になった。大分県の日田や耶馬溪、周辺は陶芸家の浜田庄司先生が、バーナード・リーチを連れて行かれた所で、テレビで拝見した所であった。どなたも行かないで終わった。
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