郷土史には記録されない、たかつの記憶をたどる まちのこぼれ話 第5話 その2 山田 義太郎さん
◆学校のこと
学校は橘尋常高等小学校でした。一学年に男女それぞれ25〜30人くらい。近所の子どもが12、13人集まって、集団で登校していたよ。低学年の頃は着物を着て藁草履を履いて通っていた。洋服を着るようになったのは3年生くらいかな。中々洋服なんて買ってもらえなかったけどね。
その頃のおやつはサツマイモやトウモロコシ。
1年生の時の宮田先生、それから稲垣先生のことはよく覚えている。稲垣先生が亡くなられた時には葬儀にも行ったなあ。
◆戦争のこと1
私はね、6年生の時から学徒動員に行ったの。だからね、小学校の卒業証書をもらってない。学徒動員を終えてから、成人学校に1年間通いそこは卒業しました。
学徒動員では新城駅近くの工場へ弁当持参で通いました。そこで養成所ってところに回されて、旋盤の仕事を基礎から習ってネジ切りって難しい技術までやりました。機械が好きだったから、結構夢中になってね。おかげで随分いろんな旋盤の技術を覚えました。
そこには横浜や大磯から来ていた者もいました。戦時中は、B29が3機編隊で頭上を飛んでねえ。恐かったですよ。
蟹ヶ谷に海軍の通信施設があったから、それが目標にされたんだね。爆撃されて、大きな、幹が一抱えもあるような松の木2本がスッパリ切り取られたようになっていたのをよく覚えている。
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GO!GO!!フロンターレ3月22日 |
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