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公開日:2025.08.15
枡形山杉の子像
学童疎開の記憶、今に残す
平和の誓い、地域への感謝
多摩区の生田緑地内にある枡形山(標高84m)。その山頂の広場に、2人の子どものブロンズ像が立っている。向かって左には、遠方を指さす男児、右にはその先を共に見つめる女児。台座には、「『輝け杉の子』川崎市学童集団疎開四十周年記念像」と刻まれている。今から40年前に建立されたこの像は、戦争遺構の一つとして、川崎市の学童集団疎開の歴史を今に語り継いでいる。
この像は、戦後40年を迎えた1985年、学童の集団疎開を受け入れてくれた地域への感謝と、平和への誓いを込め、川崎市教職員組合(川教組)を中心に、小中学・高校の校長会、PTA、川崎市教育委員会らで構成される学童疎開記念碑建設実行委員会により、枡形山と伊勢原市の大山の2カ所に設置された。台座を見ると男女の学童について「名状し難い困苦の中から祖国の再建を期する当時の幼い子らの姿」と記されている。
7千人が親元離れ
学童疎開は、戦局が激化しつつあった44年6月30日に閣議決定され、全国の国民学校初等科の3年生から6年生を対象に実施された。重要な軍需工場が集中していた川崎市でも空襲が激しさを増していたため、市は7月28日に緊急校長会を開き、市内35校のうち24校、総勢7100余人の児童の疎開先を決めた。
市外への疎開は11校約6千人。中でも、伊勢原市の大山地区には最多の9校約3200人が疎開した。大山が疎開先に選ばれたのは、緑に囲まれた立地で安全なことと、宿泊できる施設が多かったからだったという。
一方、大島、桜本、小田、渡田の4校はそれぞれ柿生、生田、登戸・稲田、向丘・橘の川崎市北西部へ疎開。児童らは同年8月から順次地元を出発し、翌45年10月に終戦により「疎開解散」に至るまでの1年間、親元を離れ、寂しさと不安の中で疎開生活を送った。
児童の死
45年5月19日、疎開先の大山で悲劇が起きた。空爆を避けて疎開したにもかかわらず5年生の米須清博君が、山間部に投下された爆弾の破片を受け命を失った。この時、米須君の担任をしていた大山正幸さんは、戦後40年の節目を迎える前年の秋、「学童疎開に参加したひとりの教師として為すべきことをこの機会にしておきたい」と記念碑の建立について川教組に協力を要請。川教組が各方面に働きかけ、準備会を経て、実行委員会が組織された。
事業を進める中で、石碑などではなくモニュメント像にする方向に。多くの児童を受け入れてくれた大山と、当時麓に桜本国民学校が疎開した鍛錬道場があった枡形山に像を設置する運びとなった。建設にあたっては、川崎市の補助金ほか、市民や教職員、各団体などから広く寄付を募り、1713万円余りが集まった。この資金を元に像を建立。8月に大山の阿夫利神社、10月に枡形山で除幕式を執り行い、同年11月には記念誌『輝け杉の子』を発刊した。像の制作を担った圓鍔(えんつば)元規さんは、この記念誌の冒頭で、「像は、疎開地にて父母を恋しく想い、故郷を遠くみつめている……一方、夢と希望を胸にいだいて未来をみつめているという、二つの想いを重ねつつ、少年の指先に思いを込めて制作しました」と綴っている。
像の名称は、当時子どもたちが歌った「お山の杉の子」にちなんで、『輝け杉の子』と付けられた。
◆取材協力…川崎市教職員組合、諏佐裕子さん(川崎市退職女性教職員の会会長)、米田信一さん(川崎教育文化研究所顧問)
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