中原区遺族会の会長を約40年務めた伊藤文治さん(89/今井仲町)。毎年10月に「英霊顕彰」としての追悼式を開催したり、会員それぞれが小学校で平和講演をするなど、戦争を風化させぬよう力を注いできた。終戦の日を前に、当時の体験について話を聞いた。
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1930年、今井仲町の百姓家の三男として生まれた。現在の今井中学校一体が畑で、幼い頃から馬車馬のように働いた。41年に太平洋戦争が勃発すると長兄はすぐに徴兵。伊藤さんは父に連れられ、赤飯を炊いて、本隊まで面会に行った。これが兄との最後になった。
中学1年になる頃、友人と神社の境内で遊んでいると、米軍の戦闘機が上空をかすめた。「死ぬかもしれない」。急いで縁の下に潜り込み、危機が去るのを待った。戦争は激しさを増し、43年には学徒動員令が発令。伊藤さんも日の丸のはちまきを付け、NECや三菱自動車の工場、時には茅ヶ崎まで陣地組みの応援に駆け付けた。45年4月15日、川崎に焼夷弾が降り注いだ日も茅ヶ崎にいた。「川崎が燃えているらしい」。電気機関車に乗って故郷へ急いだ。恐る恐る家へ戻り、家族の無事を確認したときは心底安堵した。だが今井全体を見渡せば、焼けた家が20軒以上。戦争の無慈悲さに言葉を失った。
4カ月後に終戦。ほどなくして兄と同じ軍だった人が、兄の死を知らせに来た。終戦してもなお戦争は悲しみをもたらした。以降、兄を弔うため毎年靖国神社へ足を運んでいる。「今の平和は、多くの犠牲者と悲惨な時代を生き抜いた人々の努力があってこそ。決して平和を当たり前と思わず、生きてほしい」
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