神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙

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戦時中も消えぬ思いやり 横須賀から疎開受け入れ

社会

公開:2015年7月16日

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 江戸時代より造船地として栄えた港町・横須賀市と相模原市はある時代を過ごした人々にとって、お互いの地名が深く胸に刻まれている─。

 第二次世界大戦の開戦から1年以上が経過した1943年。国は本土、特に軍事拠点への空襲を警戒し、子どもたちを農村部に疎開させた。東京、大阪など13都市が対象となる中、海軍の重要拠点であった横須賀も対象になった。

 疎開には主に親族などを頼る「縁故疎開」と、現在の小学校3年生から6年生にあたる児童を対象にした学校毎の「集団疎開」があった。東京からの集団疎開は、疎開先として長野や新潟などの甲信越、さらには山形など東北地方への疎開を余儀なくされた。一方、神奈川では当時の県知事であった近藤壌太郎が父母の不安を和らげるために県近郊への疎開を提案。横浜・川崎・横須賀の児童を県内と静岡県の一部が受け入れた。このうち横須賀の国民学校に通う児童の多くは、相模原市を中心に現在の座間市の一部を含む地域に避難した。多くの児童を一度に受け入れる集団疎開では宿舎として寺院が活用されることも多く、市内でも20以上の寺院が受け入れに協力した。

 疎開児童の大規模な受け入れを実施した相模原市では、多くの学校で授業体制を変更し、朝、昼、夕の三部に分けて授業が行われた。それでも教室が不足することもあり、集団疎開の児童は寺院で授業を受けることが多かった。

 田名国民学校(現在の田名小学校)に通っていた田所清一さん(80歳)は10歳の時に、集団疎開で来た児童と交流した。国民学校では疎開児童が来て間もなくすると、校舎の一部が軍の兵器工場に改築され、疎開児童は寺院で勉強していたという。「勉強する場所が別々になってしまい長い時間を過ごしたわけではないですが、一緒に戦争ごっこなどをして遊んだことはよく覚えています」と話す。

 日本中で食料不足が深刻だった時代、疎開児童の生活は厳しかった。田所さんはお腹を空かした児童が道端に生えた野草や、サツマイモの茎をかじって空腹をしのいでいる姿を目の当たりにしたという。設備不足から風呂に入れるのも週に数回程度。衛生状態が悪化し、ダニやシラミも発生した。「シラミに悩む児童を川に連れ、頭を洗ってあげたりしました」(田所さん)。

 そんな状況でも、地域住民が疎開児童を励ます姿が見られた。60人以上を受け入れた宝光寺(上溝)に住んでいた清水和子さん(81歳)は当時を振り返る。「近所の人たちが自発的に疎開児童を自宅のお風呂に招き、帰り際にはサツマイモのお菓子や、牛乳を持たせていた姿を見ました」。風呂から寺に帰ってくる児童は本当に嬉しそうにしていたという。終戦を迎えたあと、清水さんは疎開していた児童たちと定期的に文通を行い、お互いの近況を伝えあった。「何かあるたびに手紙を送りあう関係は数年前まで続いていました」。横須賀から疎開に来た児童の中には、疎開終了後も相模原の地を訪れては、お世話になった地域住民や、寺の住職に感謝の意を伝え回った人も多くいたという。

 相模原と横須賀。戦時下で生まれた交流はお互いの心に深く刻まれ、戦後になってもなお生き続けた。
 

当時小学生だった田所さん
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多くの児童を受け入れた宝光寺
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