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さがみはら中央区 社会

公開日:2022.09.08

シリーズわたしと戦争
怖い思い 「反対」の意思に
薗廣四郎さん(91)

  • 取材に応じる薗さん。「戦争を運命と片付けられない。国がやったことだから」とも=8月25日取材

 「戦争は絶対しない方がいい。勝とうが負けようが亡くなる人がいる。そもそも勝ったところで一部しか良くならない」。中央区相模原在住の薗(その)廣四郎(ひろしろう)さん(91)は自身の戦争経験を元にそう話す。21世紀の今、ロシアのウクライナ侵攻を見て、なおさらその思いは強くなった。「なんで戦争なんてやらなきゃいけないんだよ」

2度の空襲

 薗さんは1931(昭和6)年、7人きょうだいの四男として品川で出生した。実は、薗家は聖徳太子の側近と言われた秦河勝の次男・石勝の家系。ルーツは1400年前までさかのぼりその先祖は宮廷で雅楽の楽器「笙」を奏でていたそう。楽師の家筋は受け継がれ、明治時代には宮内庁雅楽部として林家、東儀家などと共に「君が代」の作曲に携わったと言われている。

 薗さんも13歳から宮内庁に入り雅楽を学んでいた。結核を患い家に戻っていたとき、戦争に巻き込まれた。

 14歳だった45年の3月(東京大空襲)と5月、空襲にあった。「爆弾は壊すことが目的。焼夷弾は燃やすことが目的。東京大空襲はすべて焼夷弾で、火災の規模は常識をはるかに超えていました」。自宅は焼失。母親と弟の手を握り夜から朝まで7時間逃げ続けた。

浮浪児も経験

 46年、母親が結核で死去。9人いた家族は5人となり、薗さんはその後しばらく上野の地下道で暮らした。そこには「浮浪児」たちが数千人いた。日本は食糧難で、路上で過ごす人にまで救済の手は届かず、餓死する子どもたちも少なくなかったという。「忘れてならないのは自殺者も多かったこと。飢餓、寒さ、病気、差別などの中で生きる気力をそがれたのでしょう」

 過酷な状況から立ち上がり薗さんはその後、「ハチャメチャ」に生き抜いた。結核も乗り越え26歳のとき、貼箱屋に勤めていた経験をいかし蒲田でダンボール屋の営業を始めた。そして33歳で相模原市内に東秀紙器株式会社を設立。当初は赤字が続いたものの、オイルショックの頃から売り上げが伸び、「県内で屈指のダンボール箱屋」として知られるようになった。一方、市内で共済会の立ち上げに尽力。奉仕団体相模原ロータリークラブの会員になるなど地域貢献にも積極的に参加した。

忘れられない手

 空襲後の隅田川は死体でいっぱいだったそう。防空壕で窒息死した人の死体を外へ引っ張りだす手伝いをしたこともある。当時の記憶で今も鮮明に残っているのは、戦火を潜って逃げるなかで見た、石の上に置かれていた子どもの手。爆撃で吹き飛ばされたものと思われる。「自分は怖い思いをした。だから戦争は反対なんだよ」

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