終戦から75年を迎えた今年。戦時を知る人も少なくなり、戦争の記憶は薄れつつある。しかし戦時中、日本が国策として実施し、最終的に大きな犠牲を出した「満州開拓移民」に、相模原が深く関わっているのをご存じだろうか。
区内麻溝台の源悟山顕正寺。墓地の一角にひとつの歌碑が建っている。
「阿夫利峯に 照る夕つ陽や 赤あかと 燃やしつづけし 夢よ一代」
詠み人は2004年に89歳の生涯を閉じた加藤長治さん。町議会、市議会議員を40年務めあげるなど、幅広い分野で活躍。名士と呼ぶにふさわしい経歴だが、その裏には多大な苦労と悲しみがあったとされている。
家族、仲間のため
津久井郡青根村出身の加藤さんは、「満州開拓移民」の一員として、家族と共に満州に渡った。最終的には青根村と青野原から300人以上が満州で開拓にあたったという。しかし、戦況が悪化すると、開拓団員の中から青壮年の男性が軍に根こそぎ召集された。加藤さんも関東軍に召集され、南方に派遣。最終的には済州島で終戦を迎えることになった。
その後は運よく、出征先からいち早く帰国。11月に郷里を訪ねると、団員はまだ一人も帰国していなかった。「今後引き揚げてくる家族や仲間のため、生活基盤を作っておきたい」、そう考えた加藤さんは、開拓団送り出しの責任者である県に働き掛け、入植地探しに奔走。紹介されたのが相模原にあった旧陸軍の練兵場地跡の開墾、現在の麻溝台周辺だった。
想いは届かず
満州から帰国する人のため、中心となって開墾事業にあたった加藤さん。労働争議などの困難を乗り越え、麻溝台を一大開拓地とし、当時としては画期的だった「麻溝台開拓農業協同組合」の設立にも尽力した。
しかし、多くの移民団は帰国しても、自身の家族は一人も帰ってこない。そこでもたらされたのは、家族全員死亡の報だった。
先述の歌碑の隣には加藤家の墓碑がある。そこには加藤さんの妻と2人の息子、兄・喜三郎さんの家族6人、兄・晴之さんの家族5人の名前が刻まれている。しかし、日にちは刻まれておらず、戒名もない。もちろん遺骨もないとされる。
生前の加藤さんと親交があった郷土史家の山田真也さんは「心情を察すると言葉にならない。残してくれた歌碑と墓碑から読み解ける、満州での悲劇を私たちも忘れないようにしたい」と話す。青少年義勇軍を含む満州開拓移民の総数は27万人とも32万人ともされるが、日本に帰国できたのは11万人あまりだった。
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