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八王子 社会

公開日:2025.12.25

父を置いて逃げたサイパン
堀之内在住 杉山蔵男さん

  • (左から)杉山蔵男さんと妻の愛子さん(94)

「サイパンは良いところだ、あそこへ行けば楽に暮らせる」と父親が聞きつけ、一家で移住したのは杉山蔵男さん(97)が7歳の頃。8人兄弟の5番目だった杉山さんは当初、自然豊かな南の島の生活を謳歌していたが、太平洋戦争がはじまると兄は徴兵され、自身も学徒動員で勤労奉仕をし、日に日に戦争が身近に迫るのを感じていた。

サイパン島の戦い

 1944(昭和19)年6月、米軍の激しい空襲が始まり島は戦場と化した。当時16歳くらいだった杉山さんは、爆撃を避けるため両親と弟2人、妹1人と共に自宅を飛び出し、防空壕を転々と島の中を逃げ惑った。昼は軍艦からの砲撃や爆撃に耐え、暗い闇夜の中を移動し手持ちの食糧が尽きると、村へ命がけで降りていく。戦闘が激化し家族で手をつないで歩くうちに砲弾の落ちていく音で近くか、遠くか聞き分けることができるようになるほどだった。いつ終わるとも知れない逃避行の中、次々と悲劇が襲う。いつのまにか上の弟とはぐれてしまっただけでなく、爆撃の破片が直撃して母は死亡。父は足に怪我をして歩けなくなった。「お前たちだけで行け」という父に従い、仕方なく3人でその場を離れた。それが父との最期の別れとなった。

 杉山さんはその後捕虜となり、島内の米軍キャンプで上の弟と再会。広島と長崎の原爆のことは米兵から伝え聞いたのを覚えている。

無念の涙、今も

 逃避行中の記憶と言えば「悲しい」とか「苦しい」という感情はなく、ただひたすらに「逃げなければ」「生きなければ」という必死で切実な本能が体を動かしていた。弟との再会の喜びでやっと、生き延びたことに対する安堵の気持ちを感じることができたという。

 終戦後、引き揚げ船に乗るときも「本当は帰りたくなかった。父と母を山の中に置いてきたから」という思いは強く、両親のことが常に気がかりだった杉山さんは、戦後25年後に再びサイパンへ。父と別れた”あの”場所へ、供養のために40代から何度も通った。

 記憶が薄れる前に、と60代に入って書き始めた手記は、今では貴重な戦争資料となっている。

 「(あの頃のことは)全部頭の中に入っている。今も思い出すと悲しくて涙が出る。ぼくは絶対に戦争は許さない。戦争は絶対にいけない」

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