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厚木・愛川・清川 社会

公開日:2025.08.15

愛川町半原 小島訢央(よしてる)さん(92)
小学生でも芽生えた覚悟
弟と聞いた玉音放送に安堵

  • 記憶をたぐりながら話す小島さん

 終戦を告げる玉音放送を、弟と2人で聞いた日のことを「ああ、これで戦争に行かなくてよくなった」と振り返り、これまでの緊張が一気に解けたと語る。

 生まれも育ちも愛川町。「愛川町は田舎だったので空襲はそれほど多くなかった」と語る一方で、小学3年生の頃から戦争の気配を感じ始めた。頭上を飛行機が飛び交い、警戒警報が鳴ると学校は休みになった。敵機に見つかるのを避けるため、物陰に隠れながら登下校。自宅では父と一緒に防空壕を掘った。

 町内からも多くの人が徴兵で戦地に赴き「6年生になると卒業後は戦争に行き、銃を手にする覚悟を持つのが当たり前だった。今の小学生には想像もつかないと思うけど」と苦笑する。

 空襲が激しかった横須賀などから大勢の疎開者が町を訪れ、寺に泊まる学童疎開の児童と共に登校した。

 実家は農家で、戦時中は畑で栽培する「丘穂(おかぼ)」を食べた。ぜいたくはできなかったが、食べるものに困らなかった。しかし終戦後は生活が一変、小麦粉で作っただんごが主食となり、成長期のお腹は満たされず常に空腹だった。それでも安全に学校に通い、学生生活を過ごせたことを「生きてこその、幸せだなと感じた」という。

 自身の体験を踏まえ「戦争は誰も幸せにならない。なぜ人はこんな愚かなことを繰り返してしまうんだろうね」。

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