厚木・愛川・清川 社会
公開日:2025.08.22
戦後80年 戦禍の記憶 厚木市寿町 米山幸子さん(87)
赤く染まった空、死を覚悟
東京大空襲を生き延びて
1937年、日本橋人形町で5人きょうだいの長女として生まれた。7歳の時に町田の旅館に学童疎開。「母が一度お弁当を持ってきてくれたんだけど、目を離した隙に誰かに食べられて、弁当箱だけトイレに置いてあった。そういう時代でしたね」と苦笑する。
疎開当時の主食は山野草のフキ。味が苦手で食べられず、ガリガリに痩せてしまったという。見かねた母が迎えに来たのが45年3月10日。久しぶりの実家に喜んだのもつかの間、夜中に響いた「ボワー」という低く大きな音に跳び起きた。外に飛び出すと一面が火の海。空が赤く染まっていた。空を見上げるとB29爆撃機の編隊がはっきり見えた。
着のみ着のままで外に飛び出し、兄が引くリヤカーに弟たちを乗せ、後ろから押して避難した。最初は明治座に向かっていたが、途中で出会った父に引き返すように指示された。「消防団だった父に、風向きが変わったと言われて。なので明治座に向かう人たちの流れに逆らう形で、水天宮を目指しました」
空襲は未明の出来事。3月の気候に手足が凍りついた。途中では置いていかれた赤子の姿なども目にしたが、他人に構っている余裕はまったくなかった。水天宮にたどり着くと、無事に夜を明かすことができた。後から聞いた話では、明治座に避難した人は5000人が亡くなったという。
「翌日に明治座を見に行くと、亡くなった人を外に出して焼いていて、なんとも言えない臭いが立ち込めていた。もし避難場所を変えていなかったらと思うと怖くなる」とつぶやく。
ラジオから流れてきた玉音放送は、家族と近所の人と一緒に平伏して聞いた。戦争が終わったという実感はなかったが、数日後にはアメリカ軍の装甲車両が走っている姿を見に行った。つらかったのは、戦地から戻ってきた傷病軍人が楽器を演奏しながら物乞いをする姿。弟2人を病気で失ったこと。そして小さい妹たちの面倒を見るため、半年あまり学校に行けなかったことだ。
結婚を機に厚木に移り住んで60年以上。女性と女児の生活向上を目指す国際的な奉仕団体・ソロプチミスト厚木でも長く活動を続けた。そこには、思うように生きられなかった自らの後悔がある。「戦争は戦っている人の自己満足。困るのはいつでも女性やこどもたち。時間も教育も奪われることを自覚してほしい」
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