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厚木・愛川・清川 社会

公開日:2025.08.29

厚木市鳶尾 松尾守之さん(86)
焼かれた街、飢えた日々
「恐怖を感じる暇もなかった」

  • 当時の記憶を語る松尾さん

 「体験者が少なくなり、そろそろ私の出番かと思って」。1938年、東京都目黒区に生まれた。父の転勤で深川区(現江東区)に移り住んだ3歳半の時、初めての空襲を経験。空から落ちてきたナット形の鉄塊を、そうとは知らず拾ったという。

 戦争の影が日常を覆う中、1944年、小学3年生だった姉が新潟県へ集団疎開した。「修学旅行にでも行くような顔をしてね。でも、向こうではひどい目にあったようです」。食料事情は悪化し、1945年の正月、雑煮の餅はすいとんだった。

 同年3月10日未明の東京大空襲、けたたましい警報音と怒鳴る声に起こされ、一家は防空壕へ。しかし「ここにいたら蒸し焼きになるぞ」と外へ追い出された。既に自宅のひさしは燃え始め、祖父が2階の窓を閉める姿が見えた。強風にあおられ火の粉が舞う中、母とはぐれ、祖母に手を引かれ猛火を逃げ惑った。火におののいた運送屋の馬が走り狂う姿も目にした。「怖いという感じはなかった。周りが燃えていても、とにかくパニックで」と当時を振り返る。旧中川と隅田川を結ぶ小名木川の堤防下にうずくまり、いつしか眠っていた。

 夜が明けると、辺りは見渡す限りの焼け野原になっていた。父の勤務先の事務所だけが奇跡的に焼け残り、そこへ向かう道で見た光景は凄惨を極めた。黒焦げた丸太のようになった無数の遺体。遺体のそばにあった運転台の吹き飛んだ消防車には、ハンドルを握ったままの右腕だけが残されていた。「人が重なり布団が浮いているようだった」と、川面は熱さに耐えかねて飛び込んだ人々のしかばねで埋め尽くされていた。

 家族と無事に再会した翌日、母の実家がある千葉県茂原市へ避難した。そこでは撃墜された米兵の捕虜が、縄で縛られ市内を引き回される光景も目にした。田舎での生活に馴染めず、食糧難から栄養失調とかっけになり、「二十歳まで持たない」と診断された。「戦争が終わった後の方が厳しかった」

 祖父は同年5月25日の山の手空襲で、満州にいた叔父は4月4日に戦地で命を落とした。「戦後80年を迎えた今、今がいつ戦前になるかもわからない。平和な時代だからこそ、伝えたい」

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