厚木・愛川・清川 社会
公開日:2025.09.19
厚木市厚木町 清水悦子さん(90)
空襲の中を逃げのびて
「当時の記憶、未だに消えず」
1945年7月4日未明、香川県高松市を襲った大規模な空襲。市街地の約8割が焼失し、1359人が命を落とした。その災禍の中を生き延びたのが、厚木町に住む清水悦子さんだ。
高松市で生まれ育った清水さんは当時10歳。記憶に残っているのは、国民学校の授業でなぎなたを習っていたこと。映画館で常に、日本軍が勝っているというニュースが流れていたことだ。
ただ、広がる戦火に恐怖を感じ、叔父がいる香川県直島に疎開の準備を進めていた。「本当は7月3日に疎開するはずだった。でも兄が『姿三四郎』の映画を観ると言い出して一日遅れました」
荷物をまとめて眠りについた夜中、急に空襲警報が鳴り響いた。慌てて外に飛び出し空を見上げると、飛行機の大群が目に入った。「バラバラと焼夷弾が落ちてくるのがハッキリ見えて怖かった」。気付けば周囲で爆音が響き、街が火の海に包まれた。その中を家族で手を取り合い、必死に逃げまどった。「がれきに挟まれている人、火傷を負って川に逃げ込んだ人たちが目に入ったが何もできなかった。行く先々に火の手が上がり、私たちも右往左往するしかなかった」
夜を徹して歩き続け、命からがら昼頃に国民学校にたどり着くと、炊き出しをしていた。受け取ったおにぎりは、暑い最中なのですえた臭いがした。「それでもむしゃぶりついた。今までで一番おいしい食事だった」と振り返る。
空襲で荷物が焼かれたため、疎開先には着の身着のままで向かった。食べるものもなく、サツマイモのツルやイナゴを捕まえてきて食べた。近所の人が良くしてくれて食料を恵んでもらったが、ボロボロの服だったからか、いじめられた記憶もあるそうだ。
父は出征し、フィリピンに派遣されたと聞いた。戦後、家に届いた白木の箱には遺骨は入っておらず、父の直筆で「銃後の女性として恥ずかしくない生き方をするように」と、母に向けて書かれた手紙が白い布に包まれて入っていたのを覚えている。
今もウクライナや紛争地域の映像を見ると、当時の悲しさを思い出す。「各国の代表は戦争を知らない世代。だから愚かな戦争を起こしてしまうのでしょうか」
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