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横須賀・三浦 コラム

公開日:2023.06.16

"海の隼"をあるく
〜按針が見たニッポン〜08 京都編作・藤野浩章

  • 奥には高瀬舟の石像が

 家康との2度目の会見を終えると、アダムスの待遇は「少し清潔な部屋」へ格上げされる。しかしその後40日間、何の音沙汰もなく無為(むい)な時間が過ぎていく。

 そんな中、不安が募るアダムスたちの前に現れたのが角倉(すみのくら)了以(りょうい)だった。京都の豪商として知られるが、実は代々幕府に仕えてきた医者の家系。しかし了以は家業を継ぐわけではなく、実業家として後世に名を残すことになる。

 大阪から帰る前に、角倉の邸宅があった京都に立ち寄ってみた。鴨川にかかる二条大橋の近く、日本銀行京都支店のそばに、ひっそりと「角倉氏邸跡碑」があった。

 彼は豪放闊達(かったつ)な人物で数学や地理、土木工事に明るく、後に京都と伏見を結ぶ高瀬川をはじめ富士川、天竜川などの水運を次々と開発していく。彼には豊臣秀吉時代から外国、特にベトナムとの貿易による莫大な利益があり、ゼネコンと商社を持つような存在だった。当時は46歳。家康と懇意になったのはこの直前だったというから、家康はほぼ同時期に角倉とアダムスという2人の才能を見出(いだ)したことになる。

 加えて、角倉とアダムスの間には「片言のポルトガル語」という共通言語があった。彼は家康の意向を汲み、宣教師の妨害を巧みに避けながら、アダムスに"取引"を持ちかける。家康の巧みな人心掌握ということだろうが、急激な時代の流れの中で、人と人との繋がりが複雑に絡み合い、ついにアダムスは家康と行動を共にすることになったのだ。

 そしていよいよ、アダムスは角倉とともに浦賀を目指すことになる。

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