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横須賀・三浦 コラム

公開日:2026.02.13

三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜
第31回 文・写真 藤野浩章

  • 海防陣屋跡(三浦海岸)

    海防陣屋跡(三浦海岸)

  • 三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜 (写真2)

 後に維新の三傑(けつ)と呼ばれる桂小五郎(こごろう)はなぜ浦賀の三郎助を訪ねてきたのか。少々ややこしいが、その源流を見てみよう。

 彼の生家は武士でなく藩医の家系だったが、7歳で長州藩主・桂家の養子となる。同家の祖先は鎌倉時代の学者、大江広元(おおえのひろもと)とされる。有能な文官として幕府を支えた人物が祖先というのは、やがて維新の頭脳となる彼と不思議な縁を感じてしまう。しかも、藩主の毛利家も同じ祖先。大江は元をたどると平城(へいぜい)天皇の皇子にたどり着く。皇室との繋がりは深く、毛利家は朝廷への献上や京都への立ち入りが特別に認められていたという。

 さて、学問を奨励し人材育成が盛んだった長州で、彼は藩校・明倫(めいりん)館で学ぶ。そんな彼が力を発揮したのは、学問に加えて剣術だった。当時江戸三大道場と言われた「練兵館」の創設者、斎藤弥(や)九(く)郎(ろう)の息子・新太郎が諸国巡行でたまたま長州に滞在していたとき、彼の帰国に帯同して江戸留学をする藩士を選ぶことになったが、桂は選に漏れてしまう。ところが彼は自費で手を挙げたのだ。それを機に江戸で彼の才能は開花し、ついに練兵館の塾頭に上り詰める。

 道場ではさまざまな交流があり、当時流行していた海防論議も旺盛だった。特に海防については斎藤弥九郎と親しかった江川英龍(ひでたつ)に学び、ペリー来航前後には自ら名乗り出て沿岸巡視に同行している。この過程で、彦根藩から長州藩に警備が交代した三浦半島を訪れ、浦賀や上宮田(かみみやだ)陣屋(現在の三浦海岸駅南側の海防陣屋跡)にも足を運んだのだ。

 学問と剣術を極め、外国の軍艦の姿を間近に見た桂は、藩内で重要な役割を担っていく。

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