横須賀・三浦 コラム
公開日:2026.02.06
三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜
第30回 文・写真 藤野浩章
「突然で無躾(ぶしつけ)なお願いではございますが、先生に入門致したく参上仕(つかまつ)りました」
◇
米の要求に従って開国するのか、しないのか。諸大名の意見は"祖法"を守り鎖国を続けよというものがほとんど。その総本山とも言える存在が、後の14代将軍・慶喜(よしのぶ)の父である水戸藩の重鎮・徳川斉昭(なりあきら)。老中・阿部正弘の要請で当時海防参与の職にあったが、何とペリーの暗殺まで考えていたという。「仕掛けをした屋敷に入れてしまえば一度に焼き殺せる」「江戸城内の大広間で上官らに酒をたっぷりと飲ませて頭をはね」など、物騒な計画を記した書簡が2022年に発見されている。宛先が彼のブレーンで幕府に深く関与していた藤田東湖(とうこ)であることから、結構本気だったことがうかがえる。
圧倒的な外圧が目の前に迫り、国内は攘夷(じょうい)論が吹き荒れる中で完全な板挟みになった幕府首脳は、ついに開国に舵を切ることになる。それはもちろんペリー艦隊の軍事力を目前で見せつけられたことが大きいが、本書では高島秋帆(しゅうはん)の上申書がその理屈を支えたとある。
「開国が終局的には日本に益をもたらすものになる」という高島は、幕府屈指の砲術家として日本の国防力と世界情勢を学ぶ過程で、開国して諸外国と通商すべきと唱えるようになった。その西洋砲術は伊豆韮山代官の江川英龍(ひでたつ)や幕臣の下曽根(しもそね)信(のぶ)敦(あつ)(金三郎)、そして三郎助にも伝授され、ペリー来航後、入門者が殺到したという。
そんな状況の安政二(1855)年七月一日、23歳の若者が三郎助の元を訪ねて来る。桂小五郎(こごろう)、後の木戸孝允(たかよし)である。
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