横須賀・三浦 コラム
公開日:2023.06.23
"海の隼"をあるく
〜按針が見たニッポン〜09 浦賀編(0)作・藤野浩章
1600年6月半ば、リーフデ号は大坂・堺を出港する。そう、いつの間にか船員ともども臼杵(うすき)から移動していたのだ。
ここまでの徳川家康の動きは早かった。
アダムスが大坂へ向かった後にリーフデ号を堺へ曳航(えいこう)し、到着した翌日には家康自ら視察して積み荷である最新の大砲などを直接確かめた。この時はちょうど上杉の討伐をきっかけにした東西対決が現実味を帯びてきた頃で、まさにアダムス達の存在は「渡りに船」というわけだったのだ。それでも家康は彼と2回直接会い、角倉(すみのくら)了以(りょうい)を通じて忠誠を求めるなど、あくまで慎重な動きをしているのが興味深い。
一方で、敵対する石田三成(みつなり)陣営は完全に出し抜かれる形になった。
アダムスが日本に漂着して最初に会った臼杵城主・太田重正(しげまさ)は三成陣営。しかし彼が来航を報告した長崎奉行・寺沢広高(ひろたか)は豊臣譜代ではあるが、家康と通じていたとされる。策略によってリーフデ号の積み荷が過少報告されて増田(ました)長盛(ながもり)などの奉行を欺(あざむ)き、それに気づいた三成が堺を探ると、すでに前日に出港したところだった──。そんなスリリングな展開が、本書では矢継(つ)ぎ早(ばや)に訪れる。
もしアダムスの日本到達が少しでも前後していたら、会う人が違っていたら、さらにポルトガル人宣教師の意向が優先されていたら・・・日本の歴史は全く違っていたはずだ。それだけ、リーフデ号の漂着は日本史を180度転換させるほどの強烈なインパクトを持っていた。とにもかくにも、さまざまな人の複雑に絡み合った思惑の中で、リーフデ号は浦賀を目指したのだ。
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