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横須賀・三浦 社会

公開日:2023.08.25

孤児の視点で戦争の裏面史
NHKドラマ『軍港の子』原作者が語る

  • 【1】主人公のモデルである10代の頃の祖父【2】かつて堀ノ内にあった「佐々木クリーニング店」

  • 原作者の西田さん

 戦争で身寄りをなくした子どもたちの本当の戦いは、終戦からはじまった──。太平洋戦争終結から78年。敗戦がもたらした実相を戦争孤児の視点で描いたNHKの特集ドラマ『軍港の子 〜よこすかクリーニング1946〜』の放送が先ごろあった。作品は進駐軍の占領下にあった横須賀を舞台に、クリーニングの仕事を糧にして混迷の時代をたくましく生き抜いた少年少女の物語。モデルの人物と店舗は実在していたもので、主人公の孫にあたる西田彩夏さん(32)が原作を手掛けた。ドラマ化の経緯や作品に込めた思いを語ってもらった。

 『軍港の子』は、祖父である佐々木正美をモデルにした物語です。私が1歳の頃に他界しているため、記憶はありませんが、私を抱きかかえている姿がビデオテープに残されており、3〜4年前にこれを偶然にも目にしたことで「おじいちゃんってどんな人?」と興味を持つようになりました。自分なりに調べを進め、書き溜めていたところ、ロシアとウクライナの戦争が勃発しました。ニュース映像で親や家を失い戦争孤児となった子どもたちの姿を見て、私が知った祖父の生い立ちと重なったのです。

 祖父は北海道の生まれ。ここからは憶測になりますが、幼少期に両親を亡くし、12〜3歳の頃、戦地から復員して東京で暮らしている兄を頼って単身上京しました。でも受け入れてもらえず、北海道に戻ろうと汽車に乗り込みましたが、行き先を誤って横須賀にたどり着いたそうです。帰る場所がなかったため、そんな言い方をしていたのかもしれません。その後の話も含めて、祖父は自分の昔話を語りたがらなかったそうです。息子である私の父も多くは知りませんでした。

 ドラマでは、クリーニング店を営む遠くの親類の家に身を寄せることになりますが、実際は堀ノ内にあった下宿屋に潜り込み、仕事にありついて飢えをしのいだようです。そこは海軍兵の下宿場で、戦後は海軍の払い下げ品をさばくほか、骨董品の売買からクリーニングまでなんでもこなしていました。労働力を補うために祖父と同じような境遇の子どもが重宝されたようで、「下宿屋に行けばメシにありつける」と多くの若者が集まっていました。この頃の祖父の写真がいくつかありますが、制服姿のものはなく、学校には行かず仕事をしていたかもしれません。祖父はここでクリーニングの技術を身に付け、仲間と一緒に”割のいい仕事”として、米兵の軍服を洗う「ワンデークリーニング」の工場に勤務するようになります。ドラマのように周囲の大人たちから冷たく厳しい態度を取られたかは分かりませんが、自分の力と周囲の助けで困難を乗り切ってきたことは間違いないと思います。

 祖父の物語を編んだのは、祖父なりの戦後の戦いがあったことに思いを馳せるようになったからです。玉音放送が流れ、終戦を迎えても、すべてがリセットされたわけではないという事実。孤児となった子どもにとっては悲劇のはじまりだったのです。歴史には何も残っていませんが一人ひとりに過酷なストーリーがあったはず。ウクライナの孤児の姿を見て、それが繰り返されていることに胸が苦しくなります。作品を通して、戦争と平和を「自分ごと」として考えるきっかけになることを願っています。

悲しみたたえた瞳が忘れられない元中学校教諭/木村禮子さん

 ドラマの中で描かれている世界は、横須賀だけでなく、全国であったであろう戦中・戦後のエピソードを一括りにして物語がつくられているようです。

 横須賀は幸いにも1945年7月18日の「軍港空爆」の激しさ以外は大きな難を逃れましたが、作品に登場する孤児たちに思いを寄せれば、空爆の恐ろしさを直に味わい、肉親の死を見ながら、どうすることもできなかった悲しみとやっと生きられた気持ち。「命」の重みを強く心に刻みつけたでしよう。

 孤児たちが生きるために必死に動いている姿もよく描かれていました。復興に向けて歩み出していく周囲の人たちと比較して、あまりにも異なる自分たちの境遇。それでも失望ではなく、希望を持って自らの力で生き抜こうとするたくましさを感じることができました。

 浦賀港が南洋諸島からの引揚港となり、鴨居地区に引揚同胞収容所が置かれたこともあって横須賀には多くの孤児が存在したとされています。

 私は終戦から3年後、19歳で教員となり、市内の中学校に勤務しました。家族のいない孤児たちを受け入れていた児童養護施設から通う生徒もいました。彼らの瞳がふっと見せる孤独の悲しさと寂しさ。何人かから感じ取った経験を今も忘れることができません。

 当時は身寄りのない生徒は高校進学が許されていなかったため、身内探しに奔走している話も耳にしました。進学を断念せざるを得なく、将来を悲観して電車に飛び込んでしまった生徒もいました。これも戦争がもたらした悲しみと苦しみです。

「軍港の子」にドブ板のサイパン思う演劇集団THE素倶楽夢/大溝アキラさん・YOSHIMIさん

 戦争の一番の犠牲者は子どもや女性などの弱者だということ、そして戦争孤児にとっては、戦後こそが「戦争」だったという言葉を改めて噛みしめました。きっと今のウクライナやパレスチナでもそうでしょう。

 主人公の今日一たちを助けてくれる唯一の存在がパンパンのミサ。底辺で生きるミサが今日一に言う「頑張るしかないの。だけど、どう頑張るかはあんたが選べるんだよ」という言葉にハッとしました。戦前と違って自分の生き方は自分で選べる自由な世の中になったのです。

 その言葉は現代の私たちに向けて発せられたものでもあります。多くの犠牲の上に平和で自由な今の日本が築かれました。そこで何をどう頑張るのか、何を大事にしなければいけないのか、私たちは考えなくてはなりません。ひとたび戦争になったら、選ぶ自由などなくなってしまうのだから。

 浦賀湾の「陸軍桟橋」は、かつて南方からの引揚者が上陸した地点であります。ドラマに登場する誠司もダバオからの引揚孤児でしたが、彼と同じような経歴をたどった戦争孤児が実在しました。サイパン島で米軍の爆撃によって家族を亡くし、13歳の時浦賀に上陸、横須賀で米兵相手の靴磨きを始めた少年、長岡利八郎です。「サイパン」と呼ばれたその少年は、闇市で賑わうドブ板のゴミ箱の中や防空壕、物置などで暮らしながら「最後のシューシャンボーイ」として生涯を終えました。

 私たちの劇団で来年1月、サイパンの人生を辿る芝居を上演します。戦争体験を語り継ぐために──。

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