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横須賀・三浦 コラム

公開日:2025.12.26

三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜
第26回 文・写真 藤野浩章

  • 鳳凰丸の模型(浦賀コミュニティセンター分館蔵)

「棟梁、もし一年という期限に間に合ねば、拙者は無論のこと棟梁も無事では済まんぞ」

     ◇

「御船御製造掛(おふねごせいぞうがかり)」に任じられた三郎助らは、船大工棟梁の粕屋勘左衛門

と共に建造に没頭する。その場所は、大ヶ谷(おおがやつ)と呼ばれる現在の住友重工旧艦船工場の辺り。周りが高い竹矢来(やらい)で囲まれたため、処刑場ではという噂まで流れたという。

「人体に例えれば背骨にあたる太い竜骨(りゅうこつ)を置き、その両側に肋骨(ろっこつ)にも似た彎曲(わんきょく)した肋材(まつら)を数十本もとりつけて立ち上がらせ、船殼(せんかく)をつくる」洋式船。和船とは根本的に異なる製造の過程や、干鰯(ほしか)倉庫の火災による焼失の危機が本書に描かれているが、建造には先の蒼隼(そうしゅん)丸と晨風(しんぷう)丸での経験が、ズバリ活きたのだ。

 そして何より「年のころは五十二、三か、骨太の長身に陽に灼けて角ばった顔がのっている」と描かれる勘左衛門との絶妙なコンビが、構想を次々に実現する原動力になっていた。冒頭の三郎助のセリフに対し勘左衛門は「おどかしっこなしですぜ、且那」と笑い飛ばしている。与力として指示するだけでなく現場に足繁く通って苦楽を共にするのが三郎助流なのだろう。

 安政元(1854)年9月に建造を開始した船は、12月中旬には進水したという。竣工は半年後だったが、実に8カ月ほどで完成にこぎつけた日本初の洋式軍艦は「鳳凰(ほうおう)丸」と名付けられた。

 国家的難事業で名を馳せた三郎助は、ここからさらに時代の荒波に揉まれていく。進水式の直後、何と予定を早めてペリーが再来するのだ。そして後に日本を率いることになる若者が、浦賀にやって来る。

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