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横須賀・三浦 コラム

公開日:2023.10.13

"海の隼"をあるく
〜按針が見たニッポン〜24 関ケ原編(1)作・藤野浩章

  • 関ケ原合戦場跡

 関ヶ原の戦いが行われたのは、9月15日。これは新暦にすれば1600年10月21日だ。当時、大きな戦(いくさ)には各地で農民が大量に動員されていたことから、田植えや稲刈りの時期を避けるのが武将の間の暗黙の了解だったとされる。それを考えると10月21日というのは、刈り取りが終わってから戦に向かえ、しかも気候も安定しているという、まさに絶好の合戦日和だったと言える。

 さて肝心な一大決戦だが、一次史料が極端に少なく、大半が後世の創作だという。勝者である家康と江戸幕府によって、歴史は大きく書き換えられたと言ってもいい。

 しかし、そこが小説の出番だ。本書ではどう描いたのか、アダムスが現地にいた場合どうなったのか・・・丹念に追っていこう。

 合戦本番までの間、東西両陣営とも激しい動きを見せていた。旧暦7月17日、家康への弾劾(だんがい)状が出され、翌日には伏見城を攻撃して宣戦布告。7月26日に福島正則(まさのり)ら東軍諸将が西へ移動開始。8月1日、伏見城落城。

 8月5日に家康は江戸城に入り、すぐに西へ向かうと思われたが、この後約1カ月留まっている。この間に全国の大名らに、分かっているだけで百五十超の書状を発して調略を進めていた。アダムスと謁見(えっけん)したならこの頃と見ていいだろう。

 8月14日には石田三成らが大垣城に入城。8月23日、岐阜城落城。西軍が動揺する中、27日に西軍最強と言われた宇喜多(うきた)秀家(ひでいえ)が大垣城入り。9月2日頃までに、東西両陣営が関ヶ原近郊に軍を進めた。そして9月1日。いよいよ家康軍が江戸を出立(しゅったつ)する。

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