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横須賀・三浦 コラム

公開日:2023.10.27

"海の隼"をあるく
〜按針が見たニッポン〜26 関ケ原編(3)作・藤野浩章

  • 桃配山の家康最初陣跡

 新暦10月20日に美濃赤坂に着陣した家康。調略通りに事が進めば相手が大軍であっても圧倒できるはずだが、彼には2つの重大な懸念があった。

 まずは秀忠軍。徳川譜代を主力とした三万八千の精鋭が、東山(とうざん)道で音信不通になっていた。加えて、本多忠勝(ただかつ)隊に入っていたアダムスまでもが行方不明だったのだ。秀忠軍にはリーフデ号乗組員のヘルツゾーンと10門の大砲も帯同していたから、家康は虎の子の最新兵器をまったく欠いたまま関ヶ原へ着陣してしまったことになる。家康はさぞかしイライラが募ったろうが、決戦の火ぶたは容赦なく切られた。

 JR関ヶ原駅から旧中山(なかせん)道である国道21号を30分ほど歩くと、家康が最初に構えた本陣跡がある。炎天下をさんざん歩いた挙げ句に山登りかと思っていたが、本陣は桃配(ももくばり)山の麓にあった。何だか可愛い地名だが、これは壬申(じんしん)の乱の際、大海人皇子(おおあまのおうじ)が名産の桃を兵士に配って勝ったという逸話にちなんでいるという。家康にとっては格好の験担(げんかつぎ)ぎの場所だ。

 丘から関ヶ原を見渡すと、確かに各陣営の配置がよく見える。北西にある石田三成陣営までは直線距離で約2・8キロ。東西両陣営がぎっしり対峙(たいじ)する様子を見渡せる。

 朝8時頃に火ぶたが切られた戦いは、やがて膠着(こうちゃく)状態に陥った。しかも深い霧で戦況が見えなくなってしまったのだ。

 業(ごう)を煮やした家康は、すぐ本陣を平野部に移すことになった。新たな陣は三成が陣取る笹尾(ささお)山に加えて、南西にある松尾山もよく見える場所だ。

 そこに陣を張っていたのは、勝敗を握る男、小早川秀秋だった。

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