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横須賀・三浦 コラム

公開日:2024.01.12

"海の隼"をあるく
〜按針が見たニッポン〜35 伊東編(3)作・藤野浩章

  • 築城石の積み出し場所

 日本初となる80トンの西洋式帆船を完成させた按針。続いて翌年には120トンの船を立て続けに造っている。この2隻の船はいずれも伊東で完成したが、実はその建造方法は謎に包まれている。記録がほとんど残っていないというのだ。それどころか、近年の研究では砂浜を使った造船ではなかったのでは?という説があるらしい。

「海、砂浜、川、山、職人」が船造りの要素。しかし大航海時代の真っ只中にあって、すでにイギリスでは15世紀末にドライドック(乾船渠(せんきょ))が使われていた。竜骨(キール)を背骨のように1本通す建造方法は、砂浜ではできないからだ。

 川のそばに堀で囲んだスペースを設置し、船を造る。完成したら、満潮時に水を通して浮かせ、進水させる──イギリス・ライムハウスで12年間造船に関わっていた按針が、すでに当時のヨーロッパで主流になっていたこの方法を用いたいと思ったとしても、何ら不自然ではないだろう。

 加えて、当時は江戸城改修のため、伊東から巨大な築城石が大量に運び出されていたという。そのための岸壁づくりや船への積み込みの様子を見て、按針はここに"堀"ができると確信したのではないだろうか。

 そうなると、ここには日本初の簡易ドライドックがあったことになるが、とにかく記録がない。これには、幕府の軍事機密だったことに加え、2度の大地震と津波が影響しているという。

 しかし、そんな按針の船造りをかろうじて記録に残した人物がいた。本書にも度々登場する三浦浄心(じょうしん)である。

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