OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第38回 横浜編【5】文・写真 藤野浩章
「不治(ふじ)の病に臥(ふ)した患者を見離さず、敵(かな)わぬまでも薬を投与したり手術を試みる医師のようなものかもしれぬ」(第五章)
◇
ついに建設が決まった造船所。小栗にとって大きな節目を迎えた最良の日となった。
しかし1点、曇りがあるとすれば、それは勝海舟の存在だろう。勝はこの時、専横と反幕府の行いが疑われて軍艦奉行を罷免され小栗がその後に座ったが、本来「二人三脚」で海軍力強化に取り組みたいところ。しかし勝は"イギリス派"と言われていただけに、今後の対立が目に見えていた。
冒頭の小栗のセリフは、あくまで現体制の中で最大限の努力をするという意思の表れ。しかし勝は幕臣ながら、幕府の枠組みすら乗り越えようとしている。このすれ違いが2人の間に大きな溝を作っていくのだ。その根源は出身の違いではないか?と本書は推測しているが、これは後述しよう。とにもかくにも、揺れ動く2人の心の内を読むと何とももどかしい。
さて建設は決まったものの、巨大事業にはいくつかの段階が必要で、まず必要なのは、造船に必要な部品などを製造する"小造船所"だった。
JR石川町駅のすぐそば、商業施設の前の植え込みに「横浜製鉄所跡」の説明板がある。工場は太田川沿い、現在の中華街近くに存在し、半年あまりの突貫工事で建設された。しかもたまたま、佐賀藩が造船所を造ろうと大量の工作機械を輸入していたが、計画が頓挫して幕府に預けられていた。それらを活かし、後に横須賀製鉄所を陰で支えることになる。
あとは肝心な"大造船所"をどこにするか、だった。
![]() |
|
<PR>
|
|
|
|
|
|