横須賀・三浦 コラム
公開日:2025.12.05
三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜
第23回 文・写真 藤野浩章
「分かるのはただ一つ、朝廷をはじめ水戸、長州、薩摩などの攘夷(じょうい)論が一層激しいものになり、争いが起きるのは必定(ひつじょう)、ということでござる」
◇
ペリー側の要求について、幕府の協議は難航した。江戸に知らせが着いてから4日。幕閣からの指示を今か今かと浦賀では待っていたが、その間に艦隊が江戸湾の測量に乗り出すなど、奉行所はまさに板挟みの対応を迫られていた。
冒頭のセリフは、三郎助の父・清司(きよし)のもの。もし米側の要求を入れて開国すれば他国も続き、それが攘夷を沸騰させるというのだ。しかしこの時は幕府の総力を挙げれば攘夷派の鎮圧は容易、と末端の旗本なども楽観視していたという。
やがて届いた幕府の指示は「(国書を)受け取るだけ」。こうして、交渉の一切無い"無言の外交セレモニー"が決定したのだ。
奉行所は直ちに準備に取りかかり、手狭な浦賀ではなく久里浜海岸の砲術演習場に応接所として仮陣屋を急遽建設することに。久里浜の名主鈴木弥左衛門の指揮で、百名を超す大工が昼夜兼行で建設した。「間口八間(約15m)、奥行五間(約9m)の建物」だったというが、ペリーの『日本遠征記』によると「松の木の柱や板に番号が付いているのは、前もって設計通りに作って現場に運んで手早く組み立てたのだろう」とある。将軍や大名が急遽訪れる時にはよく採られた工法で、言わば日本の得意技と言えるものだった。
さらに労働力として、奉行の支配地である三浦半島中南部の須軽谷(すがるや)から農民や漁民たちを動員。久里浜海岸は突如として騒然とし始めた。
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