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横須賀・三浦 コラム

公開日:2025.11.28

三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜
第22回 文・写真 藤野浩章

  • 浦賀奉行・戸田氏栄の胸像(ペリー記念館蔵)

「それにしても、堂々たる押し出しじゃ。誰が見ても奉行と思うべ。戸田様より貫禄がある」(第一章)

 ペリーの来航は、浦賀を拠点とする商人たちをさっそく動かした。第16回で触れた栗原村(現・座間市)の有力商人、大矢弥市(やいち)は直ちに浦賀へ駆け付け、千俵の御囲(おかこい)米を放出、他の商人たちの備蓄米も次々に開放される。以前は使用した分を支払われていたが、この頃には事実上の上納となっていた。他にも武器購入の代金を肩代わりするなど、国防費を商人が相当に負担していたのだ。

 さらに武士や商人だけではなく、三浦半島全域の住民にも大きな影響があった。というのも、異国船が来航した時には船頭や水主(かこ)(船乗り)をはじめ、兵器や荷物、兵糧の搬送から炊き出しに至るまで、大量の人夫が動員された。例えば三崎では371人、観音崎は438人など、最初に駈けつける人員だけでも相当な数だった。

 その知らせは、三崎陣屋がスタート地点。早馬が観音崎まで駈けたが、その途中で触れ回るため、東京湾沿いから情報が伝わった。そして事前の準備通りに村から村へ人力で「触継(ふれつぎ)」され、村の中では早鐘(はやがね)や太鼓で知らせる。TVやラジオがない時代、こうして非常事態は各地域に伝わったのだ。

 それは決して興味をそそるものではなく、庶民にとっては働き手を無償で動員される迷惑な知らせだったとも言えよう。

 一方、三郎助と奉行所、幕府は米側とギリギリの交渉を進め、冒頭のセリフのように浦賀奉行・戸田氏栄(うじよし)に代わるニセ奉行・香山(かやま)栄左衛門(えいざえもん)がついに登場。ペリーの久里浜上陸が決まる。

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