横須賀・三浦 コラム
公開日:2026.01.30
三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜
第29回 文・写真 藤野浩章
「旦那、冷汗もんだったけど、随(つ)いてきてよござんしたよ」
◇
嘉永7(1854)年1月のペリー再来航。日米交渉の場所は最終的に横浜村字(あざ)駒形に決まったが、その時点で優に3週間以上が過ぎていた。
この間、米軍参謀長のアダムスと奉行所は連日会談場所の交渉を進めていたが、一方で艦隊は横浜や羽田沖まで進み、建造中の品川台場を冷やかしたりとやりたい放題。挙げ句の果ては本牧付近の崖に白ペンキでいたずら書きをする有様で、それを見に多くの見物人が詰めかけたという。ちょうど「ナライ」と呼ばれる北寄りの季節風が吹き荒れる頃で、艦隊は東京湾内に留まって縦横無尽に動いていたのだ。
浦賀港にも蒸気船ミシシッピー号が勝手に入って来たが、そこには本来あるはずの船がいなかった。進水したばかりの鳳凰丸である。実は清司の助言で、闇夜にまぎれて押送船(おしょくりぶね)3艘に曳航(えいこう)されて油壺へ待避させていたのだ。米側に詮索され不測の事態が起こらないようにという機転だった。全国各藩から数万の武士が警備する中を悠々と我が物顔で動き回る米艦隊の姿は、相当な衝撃を与えたことだろう。
しかし、三郎助は違った。接待役という立場をフルに活用し、冒頭のセリフのように船大工の勘左衛門まで伴って、徹底的に最新鋭の米艦を見分。船殻構造や舵をはじめ、隅々まで詳細に研究していたのだ。この時の経験が、後の大きな柱となっていく。
そんなペリー艦隊の脅威を沿岸から眺めていた若者が、三郎助の元を訪ねてくる。後に"維新の三傑(けつ)"と呼ばれる人物である。
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