三浦の散歩道 みうら観光ボランティアガイド協会
市営プールの横を通り、道路は左へカーブをし、バス停「二町谷」の右手前の道に「見桃寺」への標示があり、右折をし、突き当たり手前の左に入ったところに瀟洒(しょうしゃ)な建物が見えます。現在の「見桃寺」です。本堂正面「紫陽山・見桃寺」とあります。明治四十一年に刊行された『三浦繁昌記』に「桃の御所」としての紹介文に次のようにあります。「桜の御所、桃の御所、椿の御所を三浦三崎の三御所と云ふ、何れも頼朝が四時(筆子註、四季)の行楽を恣(ほしいま)まにせんがため、思ひ凝らして経営せしものである。其(そ)の桃の御所の遺蹟は見桃寺に在り、読んで字の如く桃花の妖艶(ようえん)を以て頼朝の風懐を惹(ひ)きし所」とありますように、かつては、「桃の御所」と呼ばれた所に建てられた寺だということです。
『新編相模風土記稿』によりますと、寺は臨済宗京妙心寺末で、開山は白室、開基は向井兵庫頭正綱で、本尊は阿弥陀如来とあります。昔、城ヶ島の薬師堂に祀られていました藤原時代の木造寄木造り、彫眼の薬師如来立像も祀られていて市の文化財に指定されています。さらに聖観世音は、三浦観音札所巡りの第二番になります。その御詠歌は「はるばると来たりて拝む観世音就(つ)くか浄土へ光りまします」とあります。
さらにこの寺には、大正二年九月から翌三年の二月末まで、北原白秋夫妻が寄寓していた所でもあります。白秋の歌集『雲母集』の中に「見桃寺抄」と題するものがあり、「桃の御所の西日に下りて吾(あ)が巡礼の子にものいふこころ」があり、この寺に寝起きする白秋は季節の移りと共に宗教性を帯び、閑寂の世界へと向かっていったと言われています。
本堂の右前方に、自然石に刻まれた歌の碑があります。「さびしさに秋成がふみよみさして庭に出でたり白菊の花」と刻されています。白秋の歌碑は全国に四十を超える程あるとのことですが、白秋自らが除幕をされた第一号であると言われています。それは昭和十六年十一月二日のことでした。
寺の墓地に入ってみますと、この寺の開基である向井氏の墓石が並んでいます。大きな五輪の形をしたものなど八基あり、一族の墓碑です。さらに進んで行きますと、広く石の柵に囲まれた墓が目に入ります。小村とあり、正面の墓碑の下方に「南部屋」と刻されています。かつて、入舟で呉服商を営み、三崎町の町長をも務められた方の墓碑です。「歌の町」の作曲者小村三千三氏の墓もこの墓地にあります。
墓地を出て右手へ進んで行くと道が三つに別れています。迷わず、坂の道を選(えら)んで登って行きますと、やがて道の左側にお堂が見えてきました。
つづく
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