三浦版 掲載号:2012年4月6日号
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三浦の散歩道 みうら観光ボランティアガイド協会

海外町の山の神様
海外町の山の神様

 坂道を登って、見えてきた小さなお堂は地蔵堂でした。「兵助丸」などの文字がありました。土地の人に尋ねてみますと、「白石地蔵」と呼ばれているとのことでした。岩船に乗ったようにも見えます。恐らくは航海安全を祈願する「船地蔵」かと思われます。

 お堂の隣に鳥居が見えます。新明鳥居です。「二町谷神明社」です。明治四十一年以前は、元宮、中宮、端(はし)宮の三社に分かれていたと言うことで、以後、中宮であったこの地に祀られるようになったと言われています。御神体は長い楕円の白御影石で、元宮が一番大きく、端宮が最小とのことで、「白石」の地名も、この石に由来するのかも知れないと思ったりします。

 江戸時代には「白石」の名称でなく、「二町谷村」であったが、明治八年に「六会(むつあい)村」と変遷し、現在の地番は「白石町」と「海外町」になっています。

 「神明社」を出て、さらに進むと、左右に墓地があり、右手に寺の本堂があります。「真福寺」です。寺は「清宝山」と号す、浄土真宗西本願寺派に属し、本尊は阿弥陀如来です。元は鎌倉の大船辺りにあり、長保三年(一〇〇一年)の開基で、その頃は天台宗であったそうで、現在地へは永正十五年(一五一八年)に移転してきた折りに現在の宗派になったと言うことです。山門は古色で風情があります。門を入ったところに、文化十五年(一八一八年)の年号入りの「六字名号塔」があります。現在の本堂は罹災後の昭和五十三年(一九七八年)に新築されたものです。

 北原白秋が人妻との問題を起こした「桐の花事件」のため死を覚悟して、この寺を訪れたのは大正二年(一九一三年)一月二日で、当時、この寺に寄宿していた漢学者の公田連太郎氏を訪ねてのことでした。

 寺の裏側、現在駐車場になっている辺りが、第六回で記した岩村透氏の別荘「隣松庵」のあった処です。

 寺を出て海外へと進みます。寺の裏の道を行き、突き当たりを左へ入り、すぐに右へ下ります。手すりのついている下り坂です。その坂の途中に、朱塗りの小さな鳥居があり、社殿の前に鈴と赤い色の布に「山の神様」の文字が記してあるのが山の斜面に建っています。

 この辺りは「海外町(かいとちょう)」でしょう。本来は「海門(かいと)」の意であったと思われます。初声の三戸に友澄の家臣に「海外」の姓がみえますが、地区の家号にもあり、海辺の近くの意ととらえているようです。

 「山の神」を祀る坂を下って左側へ向かい、やゝ広い坂道の下辺に出ます。信号が見えます。少し寄り道のつもりで、海側を右へ進むと山側を切り崩した所があり地層が露出している個処が見えます。神奈川県指定の天然記念物です。説明によると、「シル岩やスコリア質砂岩がまだコロイド状態であった時、海底地すべりにより転位変形した結果生じた褶曲型スランプ構造」ということで、一見の価値があります。

つづく
 

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