三浦版 掲載号:2012年5月25日号
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三浦の散歩道 みうら観光ボランティアガイド協会

三基の「忠魂碑」
三基の「忠魂碑」

 八百屋の脇の石段を上ると、東岡児童会館の前に稲荷社があります。「城辺(しろべ)稲荷」と呼ばれています。三崎城の外郭に在るので、「城辺」と称するのかと思っていましたら、内海延吉氏の著『三崎郷土史考』の中では、日蓮宗の円海山大乗寺の中興の開基日乗が建てたもので、初声の矢作(やはぎ)の円徳寺の「赤辺稲荷」、同じく黒崎の延寿寺の「黒辺稲荷」も同じであると、述べています。「辺」の字も「壁」を当てて表記しています。それについて、柳田国男氏の説を引かれて、田植唄の「秋はカベを刈るように」を引用して、カベは収穫した稲の束数のことらしいと説かれているが、結びつかず、同じ柳田氏の他の説の「赤米(あかめ)」(収穫したままの米)、「黒米(くろめ)」(玄米)、「白米(しろめ)」(精白米)と三つを結びつけて考えられるので、「城辺稲荷」は「白米(しろめ)稲荷」の転呼であると記されています。

 「稲荷社」の祭神は穀物神で、『山城国風土記』逸文(いつぶん)には渡来系氏族の秦氏の祖伊呂具秦公(いろくはたのきみ)が餅を的にして矢を射ると、餅が白鳥になって飛び去り、とどまった山の峰に稲が生じたことからイナリ(稲成り)の社名が出たと言われています。天慶五年(九四二)正一位の神階を受け、赤旗や幟に「正一位稲荷大明神」と言われるようになり、五穀豊穣の他商工業繁栄の神徳から中世から近世へかけて、武家や商家の屋敷神として勧請されたと言われています。

 お稲荷さんにお参りをして、細い坂道を上がって行くと、三崎中学校の裏手へ出ます。左側は「城の腰」と呼ばれ、道は「二の堀」が在った処です。その堀に沿って歩を進めていくと、道が交差しているところへ出ます。堀の切れる辺り、「搦手(からめて)」と称される部分です。左手に行けば城山町へ、まっすぐ下れば諏訪へと行けますが、右手の坂を行きましょう。左側に「三浦市慰霊堂参道」の表識と三列の石畳の道があります。入って行きますと、右は青少年会館の裏で駐車場になっていますが、左側は高い土塁が残っています。さらに進むと「戦歿者慰霊碑」があります。昭和五十三年三月、三浦市遺族会の建立になるもので、「くにのためいのちささげしひとびとのことをおもへばむねせまりくる」の歌碑が添えられています。さらに進むと三基の「忠魂碑」が見られます。向かって右は大正四年十一月、陸軍大将子爵大迫尚敏書とあり、まん中は、昭和四年九月、陸軍大将白川義則の名が見え、うらに明治二十七、八年戦役陣歿者十四名の氏名が記されています。左側は昭和九年五月建立とあり、碑が深く沈んでいるためか陸軍大将荒木貞までは読めますがあとは不明です。後日に調べたところでは、初声の若宮神社境内に在ったもので、「荒木貞夫」でありました。裏面には、明治二十七八年同三十七八年戦役陣歿者九名の氏が記されています。

 忠魂碑の前をさらに進むと、かつての城の「物見台」に出ます。眼下に「北條湾」と向こうに城ヶ島大橋が望見できます。

つづく
 

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