三浦の散歩道 <第18回> みうら観光ボランティアガイド協会
三崎城の物見台には、市の「慰霊堂」が建っています。礼拝して、元の道へ戻りましょう。三叉路まで行き、石渡技建を右に見て、城山町へと向かいます。右手へ進んで行きますと、一段低くなった所に「大椿寺飛び地城山墓地」があります。墓地入口の右側に歌碑が在ります。聞くところによりますと、昭和四十年頃当時諏訪に在住の方の裏庭から出土したものだと言うのです。一メートルに少し足りない高さの碑面に次のような歌が刻まれています。「あ里し世乃(よの)昔にかわる三崎地に吾妻の人も恋しかるらむ」とあります。
かつて、徳川幕府は外国船の来航で、江戸湾の警護と黒船等の江戸への進入阻止を会津藩に命じたのです。時に文化七年(一八一〇年)三崎の城山に海防陣屋の支陣を設け、城ヶ島の安房崎に大筒三門を備えたというのです。やって来た藩士は八十三人と聞いています。文政三年(一八二〇)までの任務でしたが、この間に三浦で亡くなった藩士や家族が居たのです。城山の何処か不明ですが、文化九年(一八一二)には「集義館」という塾を設けて藩士や子弟の教育を行っていたというのです。
この城山墓地には二十六基の墓と供養塔が一基あります。ひっそりとした雰囲気の中にも歴史を感じながら元への道を石渡技建の所まで引き返し、手すりのついた坂を下って諏訪町へと向かいます。
北条湾の入江に流れ込んでいる川は全長二キロメートル程の小河川で、「狭塚川」と言うのです。
「北条湾の奥にはサメが住み、そのサメが姿を現すと嵐が起こるという伝説から、かつて狭塚川は鮫川と呼ばれたこともある。」(神奈川県高校地理部会編『かながわの川』より)この本の中に地元のお年寄りの話として次のようにも書かれています。「入り江の奥の諏訪の辺りは、アシの生い茂る所で、明治三十四年(一九〇一)、三崎大火の後に遊郭(ゆうかく)が狭塚川沿いに移ってきて港の花街になったんです。当時は家も少なく寂しかったようです」と記されています。
明治四十一年(一九〇八)、横須賀公正新聞社発行の『三浦繁昌記』に「日の出の町外れ、入江の奥の諏訪と云う所に小ぢんまりと一廓(いつくわく)を為して居る妓楼(ぎらう)は近江楼、金太楼、三國楼の三軒、芸妓(げいぎ)の数(すう)は七名」とあります。
大正二年(一九一三)に向ヶ崎の異人館という所に住んだ北原白秋は、狭塚川の流れに対して、故郷の柳川沖ノ端を想ったのでしょうか。「橋を渡りてつくづくおもふこれぞこのいづこより来し水のながれか」と郷愁を感じて詠んでいます。そして、川に架かる橋について、次のようにも詠んでいます。「眼鏡橋を中にわたして茶屋三戸ここの廓(くるわ)は日の照るばかり」と。
つづく
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