三浦の散歩道 〈第93回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
「三戸」の地域は相模湾に面した西側は海辺ですが東側は丘陵地になっていて、海岸線に面して南北に集落が続いています。
茨城県に「水戸」と記して、同音の「ミト」がありますが、鹿島灘に面した「那珂川」への入口の意で、「水」の「戸」なのかと考えたりしますが…。こちらの「三戸」は、直接に「水」とは関係がなさそうです。ただ、ここ「三戸」には三つの区があります。すなわち、「谷戸(やと)上(がみ)区」・「北区」・「神田区」の三区です。
今回は御用邸道路を下って、旧バス停「三戸海岸」近くを右折して、倉庫の先きを左へ曲がります。以前「さいかち樹」の目印があったのですが、現在では、なくなっています。やゝせまい道を百メートル程、進みますと、左側が崖になっている所へと出ます。「三戸谷戸上区」の掲示板があり、その下の石柱に、「承久忠臣三戸友澄 主従墳墓招魂碑道」と記され、下方に「三戸公」と、やや、大きめな文字が見えますが、その下は土に埋まってよく見えません。さらに、その先きへ数歩、行くと、小さな標示で、「三戸友澄墓所 」と記されています。その通りに、せまい道を登って行くと、左側に手すりのついた石段がありました。上まで、蜘蛛の巣を払いながら五十七段を上がって行きました。そこは木々に囲まれた深閑とした場所で、静寂さを感じる処でもあります。古びた小さな鳥居と共に石の祠などもあり、奥の方には、欠けた五輪塔なども見られます。土地の人は「つつじ公園」とも呼んでいる所です。そこに、ひときわ立派な石碑が見られます。正面に「三戸友澄招魂碑」とあり、左下に「子爵三浦基次書。」と記されています。この碑は大正十年(1921)に「初声村史蹟名勝保存会」が建てたものです。
では、「三戸友澄」とはどんな人物なのでしょう。碑の裏面に「陰歌」として次のように刻字されています。漢文体で記されています。その大意を『初声の歴史探訪記』(浜田勘太著)から読ませて戴くと、次のようにあります。
『深い森の中に大松があり、その下に古い墓が苔むしていた。そこに、偉人が安らかに祀られている。その人は、誰あろう十郎、姓は三戸名は友澄といって三浦党の勇将である。内田、荘司、海戸の三家は、皆優れた家臣である。承久の乱の賊が謀反して天運が危うしとみるや、奮然として皇軍の守りに向かった。しかるに湖南の戦に破れ、刀や矢傷を受け馬も倒れ、天運もつき、友澄もまた討死した。家人達は、その首をたずさえて、故郷に葬った。それから七百余年、ここに山海の幸を供え、酒を添え、これを祀り、村人皆手を合わせて、その忠魂をしのびうらやらんだ。(筆子は、「しのび、呼びさけんだ」と解している)その魂は、大地に忠節の士としてあることであろう。』とあります。
(つづく)
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